年が明けて、寒い寒い冬を越えて春が来て。
ぽかぽか陽気に浮かれながら桜を愛でて、桜が散ったら新緑の中をサイクリングして。
そうしていつのまにやら入道雲がにょきにょきと元気な季節になってしまった。
時が過ぎるのは本当に早い。なんだかんだと、ここにきて9年が過ぎてしまった。
しかしその割にはたいして成長していないような気がする。あ、中身ね。中身。
そりゃ商人としては素晴らしく成長したと思う。商売根性はとても大事です。
精神は肉体に比例するって言うしな。成長してなくてもしょうがないよな。と都合よく考える。
プラス思考って大事だ。ひとりでうんうんと頷き納得。
しかしどれだけプラス思考でも、暑さはどうにもならない。
店番をする気も起きず、我が家の畳の上にごろんと寝転がる。あー暑い。あちぃよ。
文明の利器クーラーよカムバック。氷でもいい。アイス食べたい。
寝転がったままズルズルと涼しい場所を求めて移動する。もう起き上がるのもめんどくさい。
着物がぺたりと肌にはりつく感触が不快で眉を寄せる。汗だくだ。
しばらくそうしてボケーっとしていたけど、寝転がっていてもどうにもならないので起き上がる。
そうだ、城に行こう。なんかどっかで聞いたようなフレーズだ。そうだ、京都行こう!みたいな。
城だったらお偉いさんが住むとこだし多少は涼しいはず。我ながら名案だ。
10.両手を広げて飛び立って
そうと決まったら善は急げ。汗だくになった着物を脱ぎ捨てて麻の着物に着替える。
自転車に乗るので袴も履く。夏の袴って蒸れる。あちー。せっかく麻の着物で涼しいのに意味がない。
戸を開けた瞬間の強烈な日差しが目に染みたけど、城に着きさえすればこっちのもんだ。
ガチャンと自転車に跨る。うわ、サドル熱い。お尻火傷しそう。お猿さんみたいにはなりたくない。
仕方がないので立ちこぎで颯爽と城に向かう。いくぞ、納涼。
「まいど、暑い中お疲れ様です」
「…お前もこの暑さの中、良くここまで上ってこれたな」
「はは、さすがに慣れました」
城までの坂道を何度も自転車で挑戦していたら、気付けばスイスイ上れるようになった。
足に結構筋肉ついたんじゃないかと思い、この間元就さんに言ったら鼻で笑われた。
けっ、いいよいいよ。別に筋肉使わなきゃいけない場面なんて特にないし。一般男性よりちょい上くらいでいい。
自転車を門番さんに預け、とりあえずそこらへんの茂みに向かって
「またがノコノコと来ちゃいましたよって伝えて頂けますか」と伝言を頼む。
了解とでもいうように、ガサガサと茂みが揺れた。
パシリなんてさせてすみません忍びさん。いつか復讐される気がする。
でも、さすがにいきなり執務室に行くのはどうかと思う。
お仕事の邪魔なんかしたらそれこそ忍びさんに殺される気がする。ぎゃあ怖い。
しばらく門番さんとだべっていると、どこからか「毛利様が執務室でお待ちだ」と声が聞こえた。
たぶん忍びさんだろうその声に、ありがとうと手を上げてお返事。いや本当、いつもすみません。
じゃあそろそろ行って来ます、熱中症にはお気をつけて。と門番さんに言いつつ背を向ける。
お前もなーという声にひらひらと手を振った。しかし、暑い。
「、入ります」
「入れ」
もう何度目だろうか、いい加減飽きたぞこの挨拶。
お決まりのやりとりをして部屋の戸を開けると、途端にむわっとした熱気が溢れ出した。
「えっ、ちょ、何ですかこの部屋。くそ暑い!」
「五月蝿い、早く閉めろ」
とりあえず言われた通りに戸を閉めるが、まじで暑い。うちの比じゃない。
「何ですか。何かに耐えてるんですか。忍耐力を上げる訓練ですか元就さん」
「…黙れ、誰が好き好んでこのようなところにいるか。…我も暑いわ!」
うわ、元就さんが怒鳴った。そんなに暑いのか。
ぐるりと部屋を見渡すと、いつになく書類が多いような。というか、書類だらけのような。
…分かった。書類の山が窓を塞いでるんだ。だから開けられないんだ。
そりゃあ真夏に密閉空間にいたら暑い。よくぞまあこの中で耐えていたものだ。城主ってすごい。
「なんかあったんですか。書類の量、馬鹿みたいに多いじゃないですか」
「…忌々しい、どこぞの糞大名が馬鹿のように暴れたせいでな…。
何故我が無能の尻拭いなぞせねばならんのだ…馬鹿は全て塵と化せばよいものを」
「わぁ…」
そうとうキてる。キレている。
日輪よ、全ての馬鹿を燃やし尽くしたまえ…とブツブツ言っている元就さんは怖い。
恐る恐る「とりあえず、これ動かしていいですか。窓開けさせてください」と言うと、
ものすごい目つきで「好きにしろ」と言われた。怖い。さっさと開けてしまおう。
窓の前まで移動し、積んであった書類を一気に持ち上げる。
今にも崩れそうだ。積みすぎ厳禁。かなり重いけど男の腕力なら楽勝。
さくさくと移動を完了し、窓を開けようとした手をふと止める。そうだ、このままじゃ駄目だ。
懐から小さな包みを取り出し、中に入っていた石ころを書類の上にぽんぽんと置いていく。
これをしないと風で書類が飛んじゃうからね。私が怒られちゃうからね。そんなのごめんだ。
「…何故、石なぞ懐に入れている」
「あれ、気になりますか。気になっちゃいますか」
「あまり鬱陶しいことを言っていると、燃やすぞ」
「この前近所の子に貰ったのを入れっぱなしにしてただけです」
店で駄菓子を買っていく子ども達がくれるんだ。
「兄ちゃん、いいもんやるよ!」って。いいもんって、石ですかとつっこみたくなるけど、
純真な子どもの心を傷つけてはいけない。いつもニコニコ笑顔で受け取っている。
お前はなんでも受け取りすぎだ…と、呆れたように呟く元就さんの顔をちらっと見て、窓を開ける。
すーっと良い風が入ってきた。さすがに高いところに建てているだけあって、よく風が通る。
窓の前で、汗だくになった着物の襟をつかんでパタパタやっていると、
机の前に座っていた元就さんもやってきた。
「元就さんもやりますか、パタパタ。涼しいですよ」
「誰がやるか」
「ですよね」
パタパタパタ。
風が私と元就さんの頬を撫ぜていく。すう、と気持ちよさそうに目を細める元就さん。
そうそう、イライラしてたら駄目ですよ。暑いのってほんとイライラ倍増するので駄目だ。
「…そういえば、今日は何の用だ」
「店が死ぬほど暑くて、城ならちょっとは涼しいだろうと思いまして」
「ここはお前の避暑地か」
「今日のところは。しかし目論見が外れました、こんなはずじゃなかった」
「だろうな」
思いつきで来たから、いつもの手土産もありません。手ぶらです。
そう言うと、元就さんはどこか疲れたようにため息を吐き出した。お疲れ様です。
しばらく窓の前で二人でぼーっとしていると、いきなり元就さんが口を開いた。
「」
「なんですか。やっぱ向日葵の一つでも持ってこればよかったですか」
「避暑に行くぞ」
「え」
どうしたんですか。どうするんですかこの大量の書類は。
避暑じゃなくて現実逃避ですか!…と口を挟む間もなく、
襟首を掴まれてずるずると引き摺られる。あ、ちょっと足がこすれて痛い。痛いけど言えない。
天井裏で忍びさんが慌てている気配が伝わってきた。
すみません、元就さんちょっと暑さで頭おかしくなったみたいです。
私のせいじゃないんで勘弁してください。まじで。復讐だけは勘弁してください。
忍びさんの復讐に怯えつつされるがままに引き摺られていると、あっという間に門のところまで来た。
元就さんと引き摺られている私を、唖然として見る門番さん。
そりゃ吃驚しますね。門番さんにこんなとこ見られるの初めてだからね。忍びさんはもう慣れてるっぽいけど。
もういいよ、好きにすればいい。と達観モードの私を無視して、仏頂面で元就さんが口を開く。
「出かける」
「…はっ!承知致しました。至急に馬を用意致しますので、しばしお待ちを」
「馬はいい」
は?と不思議そうな門番さんと私。このクソ暑いのに徒歩か。
…と思っていると、元就さんにぺいっと投げられた。辛うじて受身をとる私。
悲しいことに、元就さんの不意打ちにも慣れてしまった。なんということだ。受身までとれるようになってしまった。
いきなり何するんですかひどいですよ!と叫ぶ私をギロリと睨んで黙らせて、
さっさと自転車とやらを準備しろと言う元就さん。…パードゥン?リ、リピートアフターミー?は違う。
ぼけっとしているとまた投げられそうになったので、慌ててガチャガチャと自転車を持ってくる。
門番さんにはアイコンタクトですんませんと謝った。貴方もとんだとばっちりですね。
自転車を持ってきたはいいけど、どうするんだ。戸惑っていたら、さっさと跨れと言われた。
言われたとおりに跨る。もう言いなりになるしかない。
どうすんのかなあと見ていたら、普通に後ろの荷台に元就さんが座った。
おいおい二人乗りか。しかも当然のごとく私が前か。元就さん自転車乗れないからしょうがないけど。
未だに何でこんなことになってるのか分からないが、後で怒られるのも困るのでとりあえず注意だけはしておく。
「元就さん。そこ多分お尻痛いですよ」
「構わぬ。おいお前、何か布を持って来い」
未だに唖然としていた門番さんに声をかける元就さん。
最初は反応が無かったが、しばらくして言われたことを理解したようで。
「…はっ!」と短く声を上げて布を探しに行ってしまった。慌ててなさる。転ばないでね。
「元就さん、避暑ってどこに行くんですか」
「川だ」
そう言われて、頭の中に地図を浮かべる。そうだ。そう遠くないところにあったな、確か。
今ひとつ不安だけど、元就さんがいるから迷うこともないだろう、たぶん。
しばらくすると、門番さんが手に座布団を抱えて戻ってきた。
ずいぶん慌てたようで、5つくらい抱えている。そんなにいらない。
とりあえず一つ受け取って、懐から取り出した紐で荷台にくくりつけていく。
これでデリケートなお尻でも大丈夫だろう。
最初は混乱していたけど、行き先さえ決まればだいぶ落ち着いた。
元就さんも現実逃避したい時だってあるだろう。私なんてしょっちゅうだ。
川だって、川。響きだけで涼しそうだ。ふんふん鼻歌を歌いながら作業をしていると、
門番さんが未だに混乱しているようで話しかけてきた。
「…ええと、その、恐れ入りますが、この男…とは、御友人なのですか?どういったご関係で?」
なんとなく元就さんの方を見る。目が合った。
「取引先の城主です」
「取引先の店主だ」
ハモった。
同時の返答にさらに門番さんは混乱したようで。はぁ、左様で…と頷いている。
ぎゅっと紐を結んで、座布団くくりつけ作業終わり。いざゆかん避暑。
自転車に跨って、元就さんも後ろの荷台に乗る。
「夕餉までには帰る」
「すみません、おれもたぶんご馳走になると思います」
そう言い残して、私と元就さんを乗せた自転車は門を出た。
背中に「いってらっしゃいませー」とどこか気の抜けた声がかかる。まだ混乱してるのか。
今度混乱させてすみませんと謝っておこう。
自転車に乗って、爽快に坂道を下る。風が気持ちいい。今なら飛べそうだ。
二人乗りなんて久しぶりだったからとても不安だったけど、なんてことはない。普通にいけた。
ひ、しょ、ひ、しょ、と鼻歌を歌うと、妙な歌を歌うな恥ずかしい、と後頭部を殴られた。
しかしこの暑さから逃れられると浮かれている私に、そんなものは通用しない。
たまには仕事も忘れて息抜きしましょうと叫ぶと、お前は忘れすぎだとつっこまれた。耳が痛い。
その後は、川でのんびり涼みながら釣りをした。
釣竿は現地調達。木の枝さえゲットできれば、糸と針は持ってる。店主の懐には不思議がいっぱい。
なんでも出てくる私の懐に、呆れたようにため息をついた元就さんは見なかったことにする。
釣果は元就さんに惨敗だった。思わず「太公望ですか」と呟いたことから封神演義の話をするはめになり、
なんでも思いつきで口にしちゃあいけないなと反省した。神話なんてそんな覚えてる訳がない。
そして散々涼んだ帰り道、城下町を通り過ぎたあたりで私は絶望の声を上げた。
とんでもないことに気付いた。気づいてしまった。
元就さんを乗せて、城までのあの坂を上らなければならないことか。そうなのか。
顔を青くする私を見て、どこか楽しそうに
「、筋肉がついたと言っていたな。我に鍛えた成果を見せてみよ」と笑う元就さんは、鬼だと思った。
09/03/06
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