02:失敗を恐れることなかれ
騒がしい教室の中で、私は肘をついてぼへっと前を見ていた。
廊下でへらりと笑みを浮かべてその場の空気を誤魔化した私と『さすけ』は、
あれから一度も会話をすることもなく始業式を終え、教室に戻ってきた。
相変わらず目の前で圧倒的な存在感を放つオレンジ色の髪。
とても綺麗だ。蜜柑が食べたくなってくる。もう蜜柑の季節は終わったけど。
蜜柑に思いを馳せていたそのとき、カラリと戸を開けて担任の先生が入ってきた。
最初にお決まりの挨拶を終えた先生は、黒板に書かれた座席表に名前を書きに来い、と言った。
ああ、それもそうか。バラバラに座ってるから、誰がどこに座ってるのか分からないしなあ。
ガタンガタンと椅子を鳴らしながら立ち上がる周囲と同じように自分も立ち上がる。
のんびりした足取りで黒板に向かう途中、左からちょいちょいと軽く袖を引かれた。
そちらを向くと、前に同じクラスだった友達が可愛らしい笑みを浮かべている。
「ちゃん、いっしょだね!よろしくね」
「そだね、よろしくねー」
「相変わらず眠そうだよね」
「そんなことないよ、今日はちょっと早起きした、だけ」
くわぁ、と欠伸をしながら答えると、その友達はおかしそうにくすくすと笑った。
後ろなんだね、いいねーという声に頷きながら黒板に『』と書く。
うん、こうして見ても真ん中一番後ろというポジションは中々によい。
グッジョブマイフィンガーと本日二度目の賞賛を送っていると、右側からすっと腕が伸びてきた。
つられるようにそちらを見る。切りそろえられた清潔感のある爪。『さすけ』だった。
『猿飛』という整った字が、私の少しゆがんだ『』という字の上に並ぶ。
その様子をなんとはなしに眺めながら、私は席に戻った。黒板には色とりどりの名前が並んでいる。
人がガタガタと動いたので、空気が少しほこりっぽかった。掃除しなきゃね、教室もね。
それにしても。自分の前へと戻ってきた『さすけ』の背中を眺めながら、うーんと私は内心呟いた。
困った。『猿飛』の読み方が分からない。これでは彼のことを呼べない。いきなり『さすけ』君はまずいだろう。
ここは日本。奥ゆかしさが美点の日本、ジャパンです。名前なんてそんなフランクさは駄目駄目、名字が大事なのに。
なんだろう、猿…さるは分かる。次だよ、問題は。飛って、何。ひ?ひなの?
さるひ?さるひくん?『さるひさすけ』?もしくは大穴で『えんひさすけ』?何それ格好ヨイ。
肘をつきながらうーんうーんと悩んでいると、先生が出欠を取り始めた。
名前を呼ばれたら返事して、軽い自己紹介。定番だね。ありがちだね。
左前の子から順番に進んでいくそれをぼけっと聞きつつたまに拍手したりなんかしつつ。
あっという間に私の前まで順番が回ってきた。さあこい、さるひ?えんひ?さあどっちだ!
「さるとびー」
「ハイ」
手に乗せていた顎がガクリとずれる。おっと残念どれも外れだった。気が抜けたわい。
立ち上がった大きな背中を見つめながらインプット。真田君の保護者の『さすけ』は『さるとびさすけ』だ。
「えー…と。猿飛佐助、元4組。部活は帰宅部。
でも貰えるもんさえちゃんと貰えりゃあ部活の助っ人行くからいつでも呼んでねー」
「はい、金銭の授受は禁止なー」
「せんせー、そりゃないよ」
くすくすと教室に響く笑い声につられて私も小さく笑う。
でも暢気にぼけぼけしてる暇は無かった。気付けば「次、ー」と呼ばれていた。
ガタンと椅子を鳴らしながら立ち上がる。やばいな、なんも考えてなかった。
まあいいや。こういうのはこう、パターン通りにしゃべればいいのだ。
型にはまった生き方サイコーです。テンプレートよありがとう。
「、元1組です。部活はなんも入ってません」
そこまで言って頭がまっしろになった。駄目だ、本気でここからネタも何もない。
でも何か言わなきゃなあ。どうしようか。と、目の前のオレンジ色が視界に入った。
あー…と。この場を借りて謝っとくか。
「あと、猿飛君のことを、『さるひ』くんだと思ってました。ごめんなさい」
「安心しろ、俺も『さるひ』だと思った」
「アンタらひどくない?」
先生が深く頷いたら、猿飛君が呆れたような声で軽くつっこんだ。
そしたらまた教室がくすくすと笑いに包まれたのでひとまず安心する。
よろしくおねがいします、と頭を下げて着席。はいどうも拍手を有難う。
ほっとして息を吐いていると、前に座ってたオレンジ頭がくるりと振り返った。
少し呆れたような目をしている。
「さーん?」
「あー、ネタにしてごめん。頭まっしろになって」
「ま、読みにくい名前なのは自覚してるよ」
「やっぱり?最初えんひかなとも思ったよ」
「えんひはナイっしょ」
「でもさ、格好ヨイじゃん?」
「旦那みたいなこと言わないでよ…」
額に手を当てて、勘弁してくれと言う風に呟く猿飛君。なんだか苦労していそうだ。
それにしても、話しやすい人だなあ。なんというかこう、ノリがいいよね!
うざいテンションの高さでもなく。いい人そうだなあと私のセンサーがぴこりと反応した。
本当はもうちょっと話してみたかったんだけど、まだまだ自己紹介は続いている。
あまり私語をするのもどうかと思ったので、にかっと笑って「しー」と人差し指を立ててみた。
猿飛君は私の言いたいことを理解してくれたようで、くるりと方向転換し、また前を向いた。
その後全員の自己紹介が終わって、色々新学期のなんやらかんやらも無事終了して解散となった。
ああ、やっぱり早起きしたら、眠いわ。途中あんまり聞いてなかった。こっくりこっくりした。
まあいいや、大事なことはプリントにも書いてるでしょ。折り紙しちゃったからちょっとぐちゃぐちゃだけど。
「ちゃん、また明日ね!」という声に手を振りながら自転車置き場へと向かう。
あー、長い一日が終わった。まだ昼にもなってないけど。久しぶりの学校だったから時間の感覚がおかしい。
ぽかぽかと暖かい太陽が、さらになんか時間の進みを遅くしているような。気のせい?
ひらひらと舞う桜の花びらを眺めながら、チャリンコで校門から外へと飛び出す。
真田君とは非常に残念ながらクラスが別れてしまったけど、これからちょっと面白くなりそうだ。
晴れやかな空の下できいきいうるさいチャリンコを漕ぎながら、私は心の中で「よろれいひー」と叫んでみた。
そういえば、よろれいひーってどういう意味なんだろうか。明日猿飛君に聞いてみよう。
09/10/14
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