ゆらり、と揺れる、湯気。
白く細く漂うその隙間から覗く、別嬪さんは俺の嫁。
とは言ってもまだ正式には嫁じゃないので、そのうち嫁。婚約者とでも言おうか。
婚前ではあるが、現在は俺の屋敷に住んでいる。現在、絶賛花嫁修業中。

肝心の二人の仲だが、最初は険悪も険悪。稲姫からは常にピリピリとした殺気が漂っていた。
が、俺も普段は割とまともな人間であることが徐々に分かって頂けた様で、
今のところは、まあうまくやっていけている気がする。
俺が変態的な側面を見せるたびに「不埒です!」と殴られることを別にすれば、だが。

そして、現在。
俺の嫁と楽しそうに、それはそれは楽しそうにお話しているのは、俺の弟。
さあ御注目だ。俺ではない。彼女が楽しそうに話しているのは俺ではない。俺の弟だ。
味噌汁からゆらりとたちのぼる湯気。その隙間から恨めしそうに見ている俺に気付くことなく、
二人は楽しそうに、そりゃ楽しそうに話をしている。

何故だ稲姫よ、何故俺にはその様な顔を見せない。俺にもそんな笑顔を見せておくれよ!
それともこれは新手の苛めだろうか。ならば俺は耐えてみせる。
彼女の虐げこそが、愛。そうだろう、稲姫?






さあさお嬢さん、お泣きなさい:03






口に入れた大根の含め煮から、じゅわっと煮汁がほとばしる。
稲姫特製の飯は、旨い。とても旨い。
料理が苦手な稲姫を苛めるのも楽しそうでいいなあ、と思っていたのだが。
世の中は中々思い通りには回らない。そう、この目の前の光景の様に。



「では、義姉上はあの技を習得されていると!素晴らしい」
「いえ、稲の奥義なんて、幸村殿にはまだまだ及びません!」



嬉しそうにはにかんで、ぱたぱたと手を振る稲姫。その視線の先には我が弟。
今宵は、久しぶりに俺の屋敷に幸村が遊びに来たので、皆で夕餉を取ろうということになった。
さて、どう座るかと考えたが、気がつけば俺の前に並んで座っていた稲姫と幸村。
従って、先ほどから俺は非常に仲睦まじき様子の二人を眺めている状態だ。
寂しい、寂しいぞ。稲姫に放置されるのは毎度のことだが、弟にまで放置されるとは。
何たる仕打ち。俺にも構ってくれよ二人とも。

こちらを見ることもなく、幸村と楽しそうに話している稲姫を見つめる。
じーっと、じーっと。いっそのこと、穴が開いてしまえばいい。
湯気がふわんと漂う味噌汁の椀を手に持ったまま、熱い視線を送る。
箸を止めてまで見つめる俺に気付いてくれてもいいんじゃないですか、お二人さん。
なんだか面白くない。とても面白くないぞ。
俺は気付いてしまった、これは愛ある苛めではない、ただの放置だ。
少しは俺にも構ってくれ。気がつけば言葉が口から転がっていた。



「稲ちゃん、いっぱい食べて丈夫な赤ん坊を産んでね」



ごっふぉ!稲姫の喉からすごい音が鳴る。
咽る稲姫、苦しそうに眉間に皺が寄る。嗚呼、とても魅力的!
幸村が「あ、義姉上?!」と叫び声を上げる。心配するな弟よ、彼女は咽ているだけだ。
稲姫の顔に浮かぶ苦悶の表情を満足した気持ちで眺めて、ようやく俺は味噌汁をすすった。
舌先に広がる味噌の風味、貝割れ大根の苦味と辛味がほどよく広がって、うん、旨い。

幸せな気持ちで味噌汁をすすっていると、回復した稲姫が叫ぶ。
稲姫に怒られるのってちょっとゾクゾクする。
可愛い子の怒ってる顔は非常にいい。これを言うと弟に嫌な顔をされるので言わないけど。



「…殿!食事中に不埒なことを言わないで下さいと、稲があれほど申しているのに!」
「そ、そうですぞ兄上!不埒ですぞ!」
「幸村殿のおっしゃる通りです!不埒です!」
「ぴぃぴぃ煩いな。俺を放置したお前らが悪い!俺は悪くない!」



つん、と顔を背ける。いい歳こいた大人が何やってんだか、と自分でも思う。
「あ、兄上ぇ」と弟の情けない声がする。知るか、俺の嫁と楽しそうに話すお前が悪い。
無言で黙々と飯を食べる俺を見て、心なしか稲姫も焦っている気がする。ちょっと嬉しい。
ちら、と仏頂面のままで視線をやると、困ったように眉を寄せる稲姫と弟。似たもの同士だな。
やだなあお前ら、そんな顔してるともっと苛めたくなるじゃないか。いい加減学習しろよ。
思わず、にいと口元に弧を描いてしまいそうになるのを我慢して、かちゃん、と箸を置く。



「…さぁ問おう。この飯を作ったのは、稲ちゃん?」
「いつも稲が作っているではありませんか」
「ふん、これは…」
殿…?」



何を言われるのかと不安に思ったのだろうか、稲姫の顔が曇る。
その横でおろおろとする弟。お前は本当に俺の前だとどこか情けなくなるな。
戦場でのお前しか知らない奴に見せてやりたいよ。どうだ可愛いだろう、俺の弟は!
このような弟がいれば、苛めたくなるというのも当然という奴だ。俺は間違っていない。
そして、眼前で八の字眉をしている稲姫も、苛め甲斐がある。ただし、彼女にならば俺は苛められても構わない。
野郎はご遠慮願うが、別嬪さんにならば虐げられるの大歓迎だ!



「これは…旨い」



途端に「はぁ?」と言いたげな表情に変わった二人を満足して眺め、
再び箸を手に取った。旨い旨い。とても旨い。この金平牛蒡とか最高だね、たまんねえ。
もぐもぐと飯を食い始めた俺を、どこか気の抜けたような表情で見て、二人も食事を再開する。
そうだそうだ食べたまえ、たとえ俺のせいで中断していたとしてもだ。



「そうだ稲ちゃん、食事終わったら俺の部屋においでよ」
殿の部屋だなんてそんな、不埒です!」
「え?不埒なことしてもいいんだ?稲ちゃんがお望みなら構わんよ、いつでも来い!」



ばっと腕を広げて抱擁の準備を整える。
スコーン!と椀の蓋が額にぶつかった。おお、いい攻撃だ。
追い討ちをかけるように、「あ、兄上、不埒ですぞ!」と弟の動揺した声。
お前はそろそろ兄の変態に慣れるべきだ。そうは思わないかい。











そっと、赤くなった額を擦る。

じぃん、と熱を持ったそこは、先ほど夕餉の際に稲姫に椀をぶつけられた箇所だ。
おうおう、本気で投げてくれちゃって、まあ。照れ隠しだったら可愛いのになあ、とにやけながら擦る。
夕餉を終えた後、俺は自室でだらけていた。最後にもう一度、稲姫も来るかと誘ったが、返事は熱い拳だった。
稲ちゃん、武器無くなってもいけんじゃねぇの?と思ったけど言わないでおいた。
彼女に弓は無くてはならないものだ。

読みかけだった書物をぱらりとめくる。目で文字を追うが、さっぱり頭に入ってこない。
最初は政略結婚だったはずなのに、俺の頭の中はいつの間にか稲姫に支配されている。
怒る稲姫、涙ぐむ稲姫、殺気をふりまく稲姫、殴る稲姫、逃亡を図る稲姫。
稲姫は、俺には先ほどの幸村に見せていたような表情は全然見せてくれない。

俺、真剣に好きなんだけどなあ。この性癖がいけないのか。
反応が可愛いからってついつい苛めちゃうのがいけないのか。

しかしもって生まれた性癖など変えようが無い。
俺は苛めることに悦びを見出すし、苛められることに悦びを見出す人間だ。
嫁に取り繕うのもおかしな話だと思うので、稲姫にはありのままの俺を見せ続けている。
殴られたら悦ぶし、言葉で責められても悦ぶ。今更変えられるか、これが俺だ。

俺も弟のように真面目な人間だったら、稲姫に微笑みかけて貰えたんだろうか。
苛めるのを、我慢してみようか。俺だって根は真面目なんだ、恐らく。
そう考えて数秒で挫折した。無理だ。不可能だ。限りなく無理だ。
稲姫が可愛いから我慢できそうにも無い。気が強いくせに純情で。裏表がなく真っ直ぐで。
戦国最強の本多忠勝殿は、子育ても上手らしい。秘訣を教えてくれはしないだろうか。
俺は俺みたいな息子は御免だ。どうせなら稲姫のような可愛い娘がいい。

どうやったら教えていただけるだろうか。
悩んでいると、室の外に人の気配が。ああ、幸村が茶でも持ってきてくれたのか。




「悪い幸村、俺は俺の人生について反省中だ。そこ置いといてくれ」




そう告げても、部屋の前の気配は動かない。



「…稲ちゃん?」



ひょっとして、と思い声をかける。
暫しの沈黙の後、「入ってもよろしいですか」と稲姫の声がした。
反対する理由などない。むしろ大歓迎。入室を促す。

す、と戸を開けて入ってくる稲姫。途端に、くるりと彼女の澄んだ瞳が丸まった。
その視線の先には、書物を読んでいる俺。そんなに俺が読書をすることが意外かね。
そこ、座れば?と適当に座布団を置く。珍しく素直に従う稲姫に、俺も驚く。反抗されないのはなんだか寂しい。
しぃん、と静まる部屋。ぱらりぱらりと書物をめくる俺。内容なんか頭に入っちゃいない。
稲姫の小さな呼吸音ばかりが耳につく。ああ、俺って本当変態くさい。



「で、どうしたんだい稲ちゃん。
 殿の部屋なんて、恐ろしくて近寄れません!って言ってなかったかい?」
「…殿が、来いと言いました」
「それは何をされても文句はいえないと受け取ろう!それで良い?」
「っな、そ、それとこれとは話が別です!」



拳を握り締めて怒る稲姫。やっぱ俺無理、稲姫苛めないのなんて無理。
しかしここで苛めていくと稲姫が逃げてしまう。それは避けたい。



「稲ちゃんを呼んだのは、これを見て欲しかったからだ」



そう言って、部屋の隅に立てかけてあった物を畳に置く。
布に包まれたそれは、俺の身長はあろうかという大きな物。
ばさっと布を剥ぎ取ると、稲姫が驚愕の声をあげる。



殿、これは!」
「少し幸村に頑張って貰ったんだ。これがないと落ち着かないのだろう?」



にい、と目を細めて笑う。
よくこんな巨大で豪奢な弓と、あんなちっぽけな銃で戦えたものだ。
そう、幸村に稲姫の屋敷から持ってきてもらったのは、稲姫が俺と戦った時に使用していた弓だった。

勿論、稲姫は俺の屋敷にやってくるときにも弓は持参している。だが、それは簡素な造りの和弓だった。
どうやらいつも自分が使っている得物を持参するのは、俺に無礼に当たると遠慮したらしい。
あんな決闘をしていたら今更なのにな。礼儀正しいのは稲姫の美点だが。

久々に対面する自分の得物に、愛情を込めた手つきで触れる稲姫。
俺のこともそんな風に触れてくれればいいのに。とは言えない。言える空気ではない。
俺だって空気くらい読むさ。偶にはな。



「ありがとうございます、殿」



にっこりと。
頬を染めて稲姫が、俺を見てにこりと笑った。
初めて真正面から向けられるその笑顔。



不意打ちだった。




気付けば俺は、稲姫を畳の上に押し倒していた。
稲姫の顔から笑顔が消える。怒りからだろうか、瞬時に先程とは違う色に染まる頬。
非難するような眼差しが突き刺さる。



「っこの、卑怯者!稲を油断させてこのようなことを!」
「そうとも俺は卑怯者だ!この際だから言うが、俺は色々と鬱憤が溜まっている!
 婚約者なんだから色々したい!俺だって不埒なことしたいんだ、男なんだ!」
「恥を知りなさい!」



心の隅で、ああまたやっちまったと反省するが、俺の体は非常に正直だ。
怒りを含んだその声を聞き、背筋は快感に震える。



「いいねえ稲ちゃん、もっと罵ってよ」



にこり、と笑う。
きゅうっと唇をかみ締めて、鋭い眼差しで睨み上げてくる稲姫。
半ば騙されたような形でこうなってしまったことへの悔しさからだろうか、瞳は徐々に潤んでくる。
その潤んだ瞳に写った俺は、きゅ、と目を細めて、楽しそうに笑う。
今にも「不埒な!」と叫びたそうにわなわなしているその唇を、無理やり奪った。ごちです。


…というのは俺の願望で。実際には何もせず、稲姫の上から退いた。



「男は狼なんだよ、稲ちゃん」



妙な後ろめたさから、稲姫に背を向けて、ぼつりと呟く。
背後でむくりと稲姫が起き上がる気配がした。
逃げたければ逃げるがいい。罵りたければ罵るがいい。
しかしどうせなら激しく!俺の背骨が歓喜に打ち震えるほど!…おっと失言。



「そして、幸村も男だ」



俺はいいけど、幸村の前であんまり笑うなよ。しかもあんなに楽しそうに。
…とは、さすがに格好悪くて言えなかった。弟に嫉妬する俺はとても、とても格好悪いとは思わないか。
俺は思う。俺の美徳に反する。だからこそ自己嫌悪する。



「俺は苛めるのも泣かすのも好きだ。
 だが、最終的に合意無しで手をだすことはしない。そういう主義なの」



でも、俺以外の男はどうだか知らない。
幸村だってあのように真面目だが、一皮剥けば戦場の如く鬼神となるやもしれぬ。
嗚呼、男とは哀れな生き物だ。

夜の静けさが俺と稲姫の周りを取り巻く。
背に、ぽつりと稲姫の声が届く。



殿、ひょっとして、嫉妬なさいましたか?」
「…ああ、そうだ。俺は嫉妬している。この上なく分かりやすくな!
 さすがに恥ずかしいんでこっち見ないで下さい」



ぼそっと呟く。この場に弟がいたら驚いていただろう。
『私は、兄上は厚顔無恥だと思っていました!』…黙れ、愛しい弟よ。



「…殿は、焦りすぎなのです」



そっと、肩に手が触れた。と思ったのは束の間、ギュウッと指が食い込む。
痛い!でもちょっと気持ちいい!そのまま無理矢理ぐるっと振り向かされる。
稲ちゃん、やっぱ強いよ…絶対弓なくてもいけるんじゃねぇ?



「稲だって、もう殿の嫁になると決まった身。覚悟はしております」
「だったら少しくらい不埒なことさせてくれたってよくない?」
「それとこれとは話が別です!未だ稲は婚前の身。けじめはつけなくてはなりません!」



びしり、と告げる稲姫。凛々しい顔が格好いい。その顔で罵ってくれねぇかなあ。



「ですから、不埒なことでなければ、稲に触れても構いません。ただ、殿は不埒すぎます」
「耳が痛い」



稲姫の言葉は、落ち込んでいる俺を浮上させるのには十分な力を持っていたが。
完全に尻に敷かれているこの状況に、少し面白くない気持ちも湧く。
俺だって主導権を握りたい!



「じゃあ、触れるぞ」



あっさりそう告げた俺に、え?と驚く稲姫。
その頭に、ぽんと手を置く。そして其の侭わしゃわしゃと掻き乱して。
黒い美しい髪が、俺の無骨な指に絡む。すう、とそのまま指を引けば、縺れることなくするすると解けていく。
初めて触れた稲姫の髪は、見た目通り美しく。美しいものは、愛でるべきだ。
恍惚とした気持ちで、俺は単調な仕草を繰り返す。

稲姫の反応が無い。怖い。



「…これもひょっとして不埒?」



恐る恐る聞くと、「不埒じゃ、ないです」と小さな声が聞こえた。
嫌がっているのを無理矢理やるのも楽しいが、これはこれで楽しい。
とりあえず、今はこれで満足しといてやろう。
知らず知らずにゆるゆると緩む頬を抑えられず、俺は笑った。





09/03/18