空気の冷たさが、肌を刺すような。
視界の白が眩しすぎて、痛いと錯覚を覚えてしまうような。
そんな日だったことを、覚えている。











庵の戸を控えめに叩いて、名を呼ぶ。
ほう、と口から漏れた息が、視界を白く染めた。
暫くして、名を呼ばれた本人が焦ったように玄関から転がり出してきた。


「ぼ、坊?どうしたんだい、こんな季節に」


の言うこんな季節とは、冬。
この季節に此処を訪れたことは、此れまで一度も無い。
庵に来るまでの道は、静かだった。雪が、全ての音を吸い尽くしているようだった。
何時も、自分が訪れる際には開け放されている縁側の戸は、当然ながら固く閉ざされていた。
は珍しく慌てた様子で、自分の肩に触れた。
とりあえず入りなさい、寒かったろうに。と言いながら、中へ招き入れてくれる。
庵の中の暖かな空気に、何故か泣きそうになった。








「ほら、ここに座って、温まりなさい。頬も鼻も、ああ指も真っ赤じゃないか」
「分かった」


只の床だったはずのところに、小さな囲炉裏ができていた。
こんな物あったか、と問うと、時代は床下収納だよ、と返される。
普段はここでご飯を作っているんだと言いながら、は囲炉裏の中央に薪を足した。


「それにしても、無茶なことをするね、坊。あの雪の中をここまで来るなんて」
「もう、何度も通った道だ」
「覚えてるって?駄目だよ坊、そういう油断が一番いけないんだ、山は怖いんだからね」
「…分かった」
「まあ、来てしまったものは仕方がない。ほら、これをお飲み」
「Thank you」
「You're welcome. 火傷しないようにね」


差し出された湯を素直に飲む。温かなそれは、茶と違い味など無いに等しい。
けれど、体の芯がほこほこと緩み、全身を巡る血が元気を取り戻したように思えた。






このところ、城に居ると息が詰まる。
右目の奥が酷く疼くことが多くなった。痛むものなど、もう残ってはいないのに。



―――冬は、苦手だ。



何処も彼処も戸を閉めて、閉じ篭って、悪い空気が延々と肺腑を巡り、黒く染まってゆく。
深深と降り積もる雪が、音を奪い、自由を奪い、閉じ込められる。
今年は、それが特に酷く、耐えられなかった。
気付けば、側近の目を盗み、城を飛び出していた。







「坊、何を見ているんだい?」


ふっ、と現実に引き戻される。
囲炉裏の向かいに座ったが、穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
誤魔化すように、視線を彷徨わせる。と、壁に立てかけられていた刀が目に入った。
も刀を使うのか。そんなことを思い、驚いた。


「あれは、のものか?」
「うん?ああ、あれか。そうだね、私の刀だ」
「三本全部?」
「That's right. 三本全部」
「使えるのか?」
「坊は私を何だと思っているんだい。使えるよ、これでも戦に出たことがあるからね。
 旅に出たときも、刀は使ってなかったけど色々使って大暴れしていたものさ」
「例えば?」


武器を使って大暴れするの姿など、想像できなかった。
興味津々で尋ねると、そうだね…とは指を折る。


「釘バットに角材だろう、あとは木刀かな。まあ使えるものは何でも使うよ私は。
 そういえば坊も、何か武器を使うのかい?手に豆ができているね」
「刀の鍛錬を、している。でも一本だ。は何故、三本も使う?」
「世話になってた人が派手好きでね。何事も多いほうが格好いいだろう?
 お前は器用だから、二刀流ができるはずだ!って言われたんだ。
 それでやってみたら、向いてたんだろうね。面白いくらいに上手くいった」


懐かしそうには話す。
そういえば、自分の側近も二刀流だったはずだ。


「すると、世話になっていた人が興奮した様子で、ある本を持ってきた。
 お前、これやってみろ!と見せられたのが、三刀流の剣士の姿でね。
 流石に私も無理だと思った。でも、期待に答えたかったんだ。こっそり夜中に特訓までしたよ。
 でもその努力の甲斐もあってか、無事に三刀流の真似事ができるようになった。
 そうだ、調子に乗って特攻に行く度にやっていたら、二つ名が付いたよ。三つ首の竜だってさ」
「Why?」
「着ていた物に竜の刺繍がしてあったからじゃないかな」


二つ名に対して興味は無かったのか、どこか他人事のようには話した。
三刀流と三頭竜をかけたんじゃないかな、ねえ坊、笑えないと思わないかい?
センスがないよ、と何処か拗ねたように呟くので、思わず声を上げて笑ってしまった。










「さあ坊、体も温まっただろうし、そろそろ」


帰りなさい、とが口にしたところで、軒先の戸が爆音と共に砕け散った。
ゴウッ、と寒風が頬を撫で、周囲に漂った殺気。全身が粟立った。
咄嗟に懐刀を取り出し、身構える。何だ、何が起こった?
混乱している自分の前に影が下りる。顔を上げると、自分の前にゆらりとが立っていた。
手には、刀を持っていた。三本の刀だった。


「困った人達だね。出てきなさい」


静かな、静かな、声だった。
答えるように、庵の前へ姿を現した男達。両の手で数え切れない程。
山賊のような形をした男達は、誰もが自分達の優位を確信し、下卑た笑みを浮かべていた。


「その餓鬼を大人しくこっちへ寄越しな。そしたら命は助けてやる」
「何故だい、坊は私の大事な友人だ」
「その餓鬼を殺りゃあ、俺らはあるお人から大金が頂けるんだ」
「偉いさんの考えるこたぁ分かんねぇが、こんな簡単なことで金儲けできるってんだ!」
「お前も協力すりゃあ、少しは金を分けてやるよ。どうだ?悪ィ話じゃねェだろう?」


自分の顔から、血の気が引くのが分かった。寒気がする。
その場から一歩も動けなくなった。目の前が真っ暗になったような気がした。





―――何処までも、冬は、孤独は。 自分を、襲うのか。





「いやらしい話だ」
「何ィ?」


の、声。
さらりと流れる、いつものの声が聞こえた。
はっと気付いて前を見ると、白い世界の中に大きな背が見えた。何故か、眩しかった。
ざく、と音を鳴らし、は破壊された軒先から外へと歩み出る。


「金目当てで子供を殺すって?何時の時代も鬼がいる」


の手から、刀の鞘がばらばらと三本落ちた。
抜き身の刀身が、雪に反射した光に鈍く照らされる。


「んだテメェ、やんのか?」
「こっちに何人いると思ってんだ!」
「何人だって、変わりはしないさ」


の足が雪に埋まり、しかしそれでも一歩一歩前へと進む。
ゆらり、とその体が、緑色の光に包まれたような気がした。
一本の刀が、右手へ。一本の刀が、左手へ。


「私の前にいるものは全て吹き飛ぶから。You see?」


最後の刀が、その口へ。








轟音と共に、視界が白く染まった。輝く、白。
美しかった。思わず今の自分の状況も忘れ、その光景に只、見惚れた。
それが舞い上がった雪だと気付いたのは、全てが終わった後だった。


しん、と辺りが静寂に包まれる。

庵の床に座り込んだ自分と、庵の外に立っている
その前には、誰も立っていなかった。男達の姿など、影も形も無かった。
鬱蒼と覆い繁っていた木々に降り積もっていた雪は全て消え去っていて、
枝や、冬でも色を失っていない緑がその顔を覗かせていた。
の前にあった木は、台風が過ぎ去ったの後のように圧し折られていた。


「…?」


ピクリとも動かない其の後姿に問いかける。
はゆっくりと此方を振り返って、困ったように笑った。
久しぶりだから少しやりすぎてしまったよ、という言葉が、耳に届いた。











は、強かったんだな」
「何を今更。腕には少し自信があるって、昔言わなかったかい?」
「でも、やっぱりそうは見えない」
「それは残念」


そう言いながら、ざくざくと二人で雪道を進む。
初めて、が森を抜けるまで送るよ、と言ったのだ。


「庵を壊してしまって、すまない」
「壊したのはあの人たちで坊じゃないよ」
「でも」
「そこまでだ、坊。謝罪はいらない、戸は直せばいいんだよ」
「でも、冬だ」
「凍死はしないさ。たぶんね。大丈夫さ」


恐らく具体的な対策など考えていないであろう、気楽な調子でが言う。
しかし、その声を聞いていると本当に大丈夫なような気がしてくるのだから、不思議だった。

その時、森の出口が見えた。
薄暗い森の中とは異なり、天から溢れた光が雪に反射していて、眩しい。
思わず目を細めたのと同時に、柔らかな衝撃。
に、そっと背を押されていた。二、三歩進み、自分だけが、木々の外に出た。


?」


怪訝に思い、振り返って尋ねる。木の陰に隠れて、の表情はよく見えなかった。


「ここまでだ、坊。さよならだよ」


そう告げるの声は、相変わらず穏やかだったけれど、何かが違った。
そう、確かに何かが違っていたのだ。
自然と、自分の眉根が寄った。


?」
「もう、ここには来てはいけない、坊」


告げられた内容が、理解できなかった。
何故、と震える声が零れ落ちる。


「薄々感じてはいたんだけど、今日で確信したよ。坊は、あのお城の子だね」


自分の肩が揺れた。そうだ、と肯定したようなものだった。


「坊、君は、命を狙われる立場の子だ。
 今回は、運良く私の力だけでも坊を助けられた。
 でも、今回は山賊だったからだ。次は、忍びかもしれない。
 そうすると、私一人の力ではどうにもできない。
 坊は、こんな所で死んでいい子じゃないだろう?」


諭すように、がゆっくりと口にする。
その言葉一つ一つがどれも正論で、反論ができなかった。
瞼がギリ、と痛む。握り締めた拳が、震えた。心も、震えていた。



「坊が尋ねて来てくれるのが、嬉しかったよ。
 成長していく姿を見るのが、楽しみだった。
 土産を渡した時の、不思議そうな顔を見るのが好きだった」



自分だって楽しかった。だから、城を抜け出しては此処に来た。
の話す、不思議な話が好きだった。世界は広いのだと、知った。



「心の中では、坊が一人でここに来るのが危ないと分かっていたんだ。
 でも、深い森の神が守ってくれるさと言い訳をして、止められなかった。
 坊と過ごす時を失うのが怖かった。
 だから、今日のことは私の責任でもあるんだ、坊。
 私の我侭で、君の命を危険に晒した。それが私は、何よりも申し訳ない」



危ないことなど、自分だって分かっていた。
足跡の残りやすい雪の日に城を飛び出したのは自分だった。
警戒を怠ったのは自分で、には何の責任もなかった。



「ほんとうに、大事なんだ。だから、分かるね?さよならだ、坊」



こんな時でさえ、のんびりとした口調だった。
だが、本気だということは痛いほど分かった。

嫌だ、と駄々をこねることなど、簡単だった。
しかし、そうすることができるほど、既に自分は子供ではなかった。
楽しみにしていた筈の大人になっていくということが、何故かこの時は酷く悲しく感じた。

の姿が、木々の奥に消える。
自分の足は、まるで地に縫い付けられたかのように、動かない。
此れが、別れか?今、此の時が?別れとは、こうも呆気ないものなのか?





―――いやだ。





!」



気付けば、森に向かい、叫んでいた。



「強くなるから!
 誰よりも、きっと、強くなる!
 にだって負けないくらい、
 いや、天下だって取れるくらいに!

 だから、だから
 聞いてるか!聞こえているか!

 お前に誓う、失った右目に誓う、
 なあ、、強くなるから!

 一人前になったら、その時は!
 ここへ再び、会いに来ても、いいか?!」



――― OK.



まるでがそう言ったかのように、ざざ、と目の前の木々が揺れた。
梵天丸様!と何処からか側近の声が聞こえたと認識したところで、ふつりと意識を失った。


視界に映るのは、何処までも、温かい闇だった。






 


09/08/25