天から零れた水滴が地を濡らし、周囲には濃い生命の匂いが漂う。
耳に反響するは、しとしとと、このところずっと降り続いている雨の音。
庵の床に座りながら聞くその音は、どこか心を落ち着かせる。
「Today's weather?」
雨音の隙間を縫うように、目の前に座っているが口を開いた。
異国語で問われたその意味を暫し考える。today、今日、weather、天気。
「It is rain.」
「OK. うん、坊は覚えるのが早いね」
そう言いながら、は手元の紙に手馴れた仕草で筆を滑らせた。
先程が話した言葉と、自分が話した言葉が文字となる。
が、度々よく分からない単語を話すことは、以前から気になっていた。
馬の装飾品を土産に貰った後の事。桜が蕾を綻ばせる頃に庵を訪れた際に、
そのことについて尋ねたのが始まりだった。そのよく分からない言葉はなんだ、と。
は、ふと視線を天井にやり、考えるような素振りを見せた。
そして、さもいいことを思いついたとばかりに手を叩き、口にしたのだ。
言葉で説明するのはとても難しい。だから習ってみようか、と。
そのよく分からない言葉は、英語、という異国語らしい。
まず最初はこれを覚えよう、と『あるふぁべっと』という文字を教えてもらった。
『a,b,c』と書かれた下に、『えい、びい、しい』と平仮名で読み方が書かれた紙を土産に貰い、
城で鍛錬や稽古の合間に勉強した。全ての文字を覚えた頃、桜は散り、青々とした葉を繁らせていた。
暫く、庵に行けない日々が続いた。
そんなある日、好きなように飛ばせていた青葉が、脚に何かを括り付けて帰ってきた。
からの手紙だった。『次はこれを覚えるように』と書かれた紙には、
『I あい、意:私』『you ゆう、意:あなた』といった簡単な単語と、
『Good morning ぐっど もーにんぐ 意:お早う』『Hello へろー 意:こんにちは』といったような
簡単な挨拶がつらつらと書き並べてあった。緩やかに流れるような筆遣いで書かれたその文字は、
態々が自分のために書いたと一目で分かるもので、心の奥がこそばゆいような、そんな感情に襲われた。
それから、青葉を介して異国語を学ぶ日々を過ごした。
次に漸く庵を訪れることができたのは、既に夏も終わろうかという頃だった。
いらっしゃい、坊。しばらく見ないうちに、また背が伸びたかい?と聞くに、
Yesと返事をすれば、どこか嬉しそうにその目が細まった。
そうして異国語を習いだして、一年が過ぎた。自分の齢は十二を数えていた。
は、幾つになったのだろうか。全く老けたようには見えないが、
側近と同じ年だとすれば今年で二十二を数えている筈だった。
また桜が咲き、散り、草木が芽生え、そして雨の良く降る季節になり、
異国語で簡単な文なら話すこともできるようになった。
庵で机に向かい合って座りながら、の質問に答えを返すということを先程から繰り返している。
ふと、は何処でこの言葉を覚えたのか気になった。
「は、何故異国語を知っている?」
そう尋ねると、は目をくるりと丸め、幼子のような顔をした。
かと思えば、何処か遠くを見るような眼差しをして、目を細める。
良く目にする、思慕の念が滲んだ表情だった。
その顔は、故郷を想う者の表情とよく似通っていた。
―――旅先でね。
その言葉を聞いて、矢張り、と納得する。
があのような表情をするのは、決まって旅先でのことを話す時だ。
「私が、あまりに何も知らなかったものだから、皆が心配になったらしくね。
世話になっていた人が『お前そんなんで世界に羽ばたけると思ってるのか』と言って、
異国語の本、教科書というものだったかな、をくれたんだ。
それを見ていた人たちが、じゃあ自分のも、と次々に色んな教科書をくれたよ。
私も、色々知識をつけることが彼らへの恩返しになると思って頑張った。
中でも異国語は特に頑張ったかな。あの人がくれたものだったからね」
「は、本当にその人を慕ってるんだな」
感心してそう零すと、は溢れんばかりの笑みを浮かべる。
「感謝してもしきれないから。面白い人だったよ。
そうだ、そういえばこの前こんなものが出てきたんだ。
何処で紛れ込んだのかな、吃驚したよ。
私はもう飽きるほど聞いたことだから、坊にあげよう」
机の脇に置いてあった紙束の中から取り出された一枚の紙を手渡され、覗き込む。
の字とは全く異なる、太く荒々しい、良く言うならば雄雄しい文字が躍る。
中でも題字のように一際大きく書かれた文字が気になった。
「今日から俺は?」
「そういう名前の本があるらしい。強い人間になりたいなら見ろ!と言われたけど」
「一、友達を大事にしない奴は屑だ」
「友は何よりも大切にしろ、と教えられたね」
「一、お前の為にチームがあるんじゃない、チームの為にお前がいるんだ、team…組?」
「人の上に立つ者になるつもりなら覚えておけ!と言われたよ。
仲間のために命張れなきゃ男じゃない、が口癖の人だったから」
本の受け売りらしい。面白いだろう?とは笑った。
他にも色々な言葉が書かれているその紙を、そっと懐に入れる。
外では、未だ止む気配の無い雨が降り続いている。濡らしてはいけないものだ、と思った。
「坊、足下に気をつけて。転んではいけないよ、着物が汚れるからね」
何時の間にか、雨は止んでいた。
外に出た自分に向けられた言葉に、苦笑が滲む。
もう、十二だ。雨に喜び、はしゃぐような子供ではない。
は、何時も自分を子供扱いする。出会った当初なら仕方の無いことだと思うが、
既に二年という月日が経ち、病にかかることの多かった自分の体は、
徐々に丈夫に、逞しくなってきている。側近はそのことをとても喜んでいた。
「馬がいるから、大丈夫だ」
「なら大丈夫かな。馬は速くなってきたかい?よかったら、今度灰駆と遠乗りに出掛けようか」
「本当か?!」
あの走りに、自分は何処まで追いつけているのだろうか。
と並んで走っている己の姿を想像し、思わず興奮した。
そんな自分に、は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「坊、異国語だと?」
「…本当、…really?」
「Good! 本当に坊は頭がいいね、教えている私も楽しいよ。
じゃあ、気をつけて帰りなさい。また青葉に手紙を寄越すよ」
「分かった。また来る。…See you again」
「坊は会う度に大きくなるから、楽しみだね。Have a good day」
ぱたぱたと、木々の葉から零れ落ちた雫が、地に落ち吸い込まれていく。
水を吸い、木々が周囲に発する濃い生命の匂いを吸い込みながら、庵を後にした。
今度会う時は、もっと大きくなって、を驚かせてやろう。
父上に頼んで、異国語を習うのも良いかもしれない。きっと、驚くに違いない。
そんな思いで見上げた空には、大きな虹が架かっていた。
重なる葉の隙間から見えるそれは、とても、美しかった。
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09/08/20