深々と静かに雪が降る季節を通り過ぎ、山は少しずつ色を取り戻しつつある。
久方ぶりに姿を見せた地面。雪解け水が、彼方此方で小さな川を作っていた。
それらを避けるように進み、辿り着いた庵では、
変わらずにやわらかい微笑で自分を迎える人と、奇妙な形をした馬が一頭いた。
「よく来たね、坊。少し背が伸びたんじゃないかい?」
そう言っては、傍へと歩み寄った自分の目を見て笑う。
確かに、この冬で自分の身長は少し伸びていた。齢も、十一を数えていた。
夜更けに、骨が疼く様な関節の痛みで目が覚めることもある。
側近に、これは何か変な病気ではないかと問うてみたが、
それは梵天丸様のお体が大きくなる証に御座います、と嬉しそうに告げられた。
「まだまだ、伸びる」
「それは楽しみだ」
「、それは?」
首を傾げて、が手入れをしていた馬を見つめる。
その馬は、やはり近くで見ても奇妙だった。
彼方此方に、銀色をした、妙な装飾品が付いている。
は、ああ、と納得したように、ひとつ頷いた。
「坊と会うのはこれが初めてだったかな?紹介するよ、私の相棒だ」
「相棒?」
「そう。旅に出たときも片時も離れたことは無かった」
「名は?」
「なんだったかな」
考え込むように顎の下に手をやったに、少し呆れた。
相棒とまで言える馬の名を、忘れているようだった。
自身のことでさえ、何処か他人事のようにのんびりと話す。
自分が想像している以上に、物事に対して無頓着な性質なのかもしれない。
暫しの沈黙の後、そうだそうだ思い出したよ、と嬉しそうに笑顔を浮かべる。
「灰駆だ。私の世話になった人が、この子のことをそう呼んでいたよ」
「ばいく?」
耳慣れない響きだった。
幼い頃から字は勉強していたが、直ぐに当てはまる字が思い浮かばない。
「そう、こういう字を書くんだ。私は『はいがけ』と呼んでいたけど」
そう言いながら、は何処からか拾った枝で地面に『灰駆』と書いた。
納得したが、が字を知っているということに、少し驚いた。
「当て字、というらしいよ。ちなみによろしくは『夜露死苦』らしい」
「………」
なんとも言えずに、妙に仰仰しい字の羅列を眺めた。
まるで子供の遊びのようだった。ただ、字を習える立場の子供は、そんな遊びはしない。
話題を変えるように、灰駆という馬についている装飾品を指差した。
「これは?」
「こうして改造すると、速く走れると言われてね。
旅先で色々とやったんだ。還ってきてからも、何故か付いたままなんだ。おかしいだろう?
だけど、今でもこれが付いていると、不思議と速く走れる気するんだよ」
馬の後足の辺りには、大きな銀色の筒が何本か付いていた。
頭には、手綱の代わりに湾曲した銀色の棒が取り付けられている。
相変わらず妙だと感じるが、鈍く光るそれらは、何処か魅力的でもあった。
―――乗ってみたい。
そう思った自分に気付いたのか、は緩い笑みを浮かべる。
「よかったら、一緒に乗ってみるかい?」
「良いのか?」
「坊だけで乗ると少し危険かもしれないから、私と一緒にだけどね。
冬の間は、思うように馬を駆けさせてやることはできないから、
この子も走りたくてうずうずしていたんだ。最近、ようやく雪が解けてきただろう?
何処か遠駆けにでも出かけようかと思っていたときに、ちょうど坊が来たんだよ」
ひらりと身軽な動作で、は馬に跨る。
普段ののんびりとした様子からは考えられない、鮮やかな動きだった。
―――さあ、おいで。
そう告げながら、馬上から差し伸べられた手を、勢い良く握り締めた。
二人で馬に乗ることに対しての警戒心など、欠片もなかった。
灰駆という馬は、速かった。
本当にこれが馬か、と感じるほど速く、の腕に抱かれながら、ひどく驚いた。
しかし、もっと驚いたのは、そのに対してだった。
自身の体を、後ろから包む両腕。手綱は、握っていなかった。最初から付いていなかったが。
「」
「なんだい、坊?あまり喋ると舌を噛むよ」
「何故、手綱を握らずに、こんなに速く、走れるんだ?」
「本当に心の通った相棒は、脚で十分意図を汲んでくれる。
それに、いざという時に両手を自由に使えた方が、色々と便利だろう?
という、私の世話になった人の受け売りさ」
いざという時ってどんな時だ、と一瞬思ったが、言わなかった。
多分、戦の時のことを言っているのだと、直ぐに想像できた。
暫く、勢い良く風を切りながら山の中を走り続ける。
まだ少し冷たい風は、むき出しの耳を冷やし、痛めた。だが、速く走るのは気持ちよかった。
自分の髪を舞い上げる風が心地良く、目を細める。
すると、行き成りが口を開いた。
「ごめん、坊。我慢できなくなってきた」
「何が、だ?」
首を後ろに向けた。辛うじて見えたは、申し訳なさそうに笑みを浮かべていた。
「トラウマになったら、ごめん」
「とらうま?」
また、よく分からない単語。自分が首を傾げると同時に、ふわ、と体が宙に浮くような感覚。
れっつぱーりぃ、という、妙に楽しげなの声が、耳に響いた。
「ごめん、坊。あんなに走ったのは久しぶりでね。
なんだか旅をしていた頃を思い出して、ついテンションが上がってしまった。
もう、馬に乗るのは、嫌になったかい?」
てんしょん、という、また良く分からない単語を口にしながら、が謝罪した。
馬が崖を下りるという体験を初めてした自分は、何処を如何走ったのかは覚えていないが、
無事にの庵へと戻ってきていた。相変わらず、自然に囲まれた静かな空間。
下馬し、自分を軒先に座らせて水を汲んできたは、申し訳なさそうに眉を下げている。
ばくばくばく、と心臓が痛いほど脈打っている。
じっとりと浮かんだ汗。額に髪が纏わり付いていた。
―――この感情は、鼓動は、恐怖か?
否、違う、と直ぐに答えが出た。そんな不快なものではない。これは。
まだ整わない息で、口を開く。
「れ、」
「れ?」
「れっつぱーりぃ、って、何だ」
非難の言葉を想像していたのだろうか。の目が、少し驚いたように丸まった。
そして、安堵したように緩く微笑んだ。自分が気分を害していた訳じゃないと悟ったようだ。
「Let's party. さあ、始めようじゃないか、というような意味でね。
そう言うと、いつもより自分が強くなったような気がする。
特攻の前とかに、よく仲間で言っていたんだ。だからかな、癖になってしまったようだよ」
「そう、か」
だんだんと息が整ってきた。が、未だに興奮している自分の体は熱い。喉が渇く。
が差し出してきた茶碗の中身を、無意識に飲み干していた。
痛いほどに冷えた水。美味しかった。
「自分も」
「うん?」
「自分も、あんな風に、走れるか」
あんな風に、速く。どこまでも速く。
は、何処か嬉しそうに笑った。勿論、と頷いた。
「さあ、坊、今日は疲れただろう。ゆっくり休むんだよ、いいね?
冬は越えたとはいえ、まだ夜は冷える。腹を出して寝ていてはいけないよ」
「分かった」
そう告げるは、帰る自分を見送るために庵の前まで出ていた。
まるで親のようなことを言うので、思わず苦笑が漏れる。
「また、来る」
「楽しみにしているよ。そうだ、坊は今日は馬で来たのかい?」
「あっちの木に、繋いである」
「じゃあ、大丈夫だね。少し荷物になるけど、お土産だよ。私にはもう必要ないものだから」
風呂敷に包まれた大荷物。大きさの割に軽い。何だと首を傾げる。
は、良かったら坊の馬に付けてあげなさい、と言いながら中を見せてくれた。
灰駆についていた、あの銀色の装飾品だった。思わず驚き、声を上げる。
「いいのか」
「悪かったらあげていないよ」
そう言って、は笑う。何故か、胸の奥が痛くなった。
「また、来る」
もう一度、確かめるようにそう言った。
できるだけ、早く。可能な限り、ここへ来たい。
そんな感情が、湧いていた。の存在が、自分の中で大きくなりつつあることを、自覚した。
手を振るに見送られながら、次はいつ来れるだろうか、と空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、どこまでも澄んだ青だった。
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09/08/15