静かな緑に囲まれたその地を再び訪れたのは、
桜が咲き、散り、蝉が鳴く季節を通り過ぎ、稲穂が実る頃だった。
本来ならばもっと早くに訪れたかったのだが、
鍛錬や稽古に忙しく、中々時間が取れなかった。
その上、近頃益々過保護になったと思われる側近は、常に自分の行動に目を光らせていた。
その隙を見計らい、城を抜け出すのは並大抵のことではなかった。
何故、自分はそうまでして、再びこの地へとやって来たのだろうか?
「やあ、坊。良く来たね。いらっしゃい」
ふと胸をよぎった疑問は、やわらかい微笑を浮かべて自分を迎えたを見ると同時に、消えた。
「どうだい、少しはましになっただろう?床の板を全部取り替えたんだ。
壁も新しい板と土で補強した。今年の夏は暑かったからね。堪えたよ」
小さな庵は、確かに人が住んでいても可笑しくない程度に修復されていた。
差し出された茶碗を受け取り、軒先に並んで座る。
茶碗の中は、澄んだ水で満たされていた。
警戒心は薄れているとはいえ、流石に、用意された水を飲むのは少し躊躇われた。
「気になるなら、庵の裏に湧き水が出ている。そこから汲んでおいで」
そんな自分の躊躇いを見抜いたかのように、
木々の隙間から漏れる太陽の光を見上げながらが言う。
その言葉に甘えて、軒先の足下に用意されていた雪駄を履いた。
小さな庵の壁に沿うように裏側へと回り込むと、
草木に覆われた土の隙間からちろちろと湧き水が流れ出ていた。
罪悪感が胸をちり、と掠めたが、先に茶碗の中の水を捨て、洗った。
そしてそのまま濡れた茶碗の中を満たす。澄んだ、綺麗な水だった。
新しい水を汲んで戻った自分を、は特に咎めることもなかった。
隣に座るように促し、またゆるりと喋り始める。
「あの湧き水は、よく冷えていて美味い。飲んで御覧なさい」
「…美味い」
「だろう?ミネラルウォーターなど目じゃない」
よく分からない単語だった。
そういえば、あの別れ際に渡された、『こいん』という物もよく分からない単語だった。
城のものに怪しまれぬ程度に聞いてみたが、皆が皆、『古印?』と首を傾げた。
その『こいん』だが、何となく、他人に見せてはいけない物のような気がして、
懐深く仕舞ってある。が言ったように、お守りのようなものになっていた。
「は、何者だ?」
会わない間、ずっと疑問に思っていたことだった。
『こいん』という、見るからに高価そうな物を持っていたり、こんな所に一人で住んでいたり。
好奇心を誘う人間だった。そうだ、だからこそ、自分は再びここへ来たのではないか。
「何者だ、とは難しいことを言うね、坊。人間に見えないかな」
「そういうことじゃない。ただ、武士にも見えないし、農民にも見えない」
「これでも、腕には少し自信があるんだけどね」
「そうは見えない」
「それは残念だ。うん、そうだね。武士でも農民でもない。旅をする人かもしれない」
「旅人?」
「正しくは、旅をした人、かな」
遠くを見るような目をして天を見上げたと同じように、自分も視線を宙へと飛ばす。
ただ、木漏れ日が美しかった。
「私は、幾つくらいに見えるかい?」
「…十七、八じゃないのか?」
「坊にはそのくらいに見えるのか。実は二十くらいだよ」
驚いた。
自分の側近よりも幾らか若いと思っていたが、変わらぬ年だった。
「坊は、十を数えたくらいかな」
「ああ」
「今の坊から、五つくらい年を重ねた頃、私は旅に出たんだよ」
少し長くなりそうだ、時間は大丈夫かい?とが首を傾げる。
こくりと一つ頷いた。まだ、抜け出したことには気付かれていないだろう。
ただ、日没までには戻らなければならなかった。
「旅に出たのは突然でね。気付けば全然知らない土地にいたよ。
そうだね、どう言えば分かりやすいかな。
馬に乗っていたら、突如馬が違うものに変化した。見たこともないものだ。
気が動転した私は、そのまま落馬した。馬と呼んでいいのか分からないものだったけどね」
想像できなかった。気が狂ったようなことを言う、とも思った。
しかし、好奇心が疼いた。もっと話を聞いてみたいと思う。
「私はひどい怪我をした。でも幸運なこともあったよ。
見知らぬ土地、見知らぬ物全てに混乱していても、その怪我のせいだと思われたんだ。
私の知らない者が、私を仲間だと言った。だから、心配だとも。
皆、良い人ばかりだったよ。中でも取り分け、親切にしてくれた人がいた。
強くて、優しくて、眩しい人でね。あの人には、感謝してもしきれない。命の恩人だ」
そう話すの顔には、思慕の念が滲んでいた。
本当に大切に思っているのだろうと、誰もが一目で分かるような、そんな表情だった。
「あの人は私に色々なことを教えてくれた。
どうやったらもっと速く走れるのかだとか、どうやったらもっと強くなれるのかだとか。
赤子のように何も分からない私の面倒を、逐一見てくれたんだ。
でも、急に私は、その旅から還ってきてしまったんだよ」
「何故?」
「さあ、わからない。旅とはきっと、そういうものなんだ」
でも、一言で良いから、礼を言いたかった。できることならね。
そう呟いて、は茶碗から水を飲んだ。
思い出したように、自分も手に持った茶碗から水を飲む。
いつの間にかひどく乾燥していた喉に、その水は天からの恵みのように思えた。
気が付けば、日が傾いていた。
そろそろ戻らねば、城を抜け出したことに気付かれる。
仮にそうなれば、二度と、ここには来る事ができなくなるかもしれない。
それは避けたい、と思っている自分がいた。
「そろそろ、戻る」
「そうだね、そろそろ戻りなさい。
そうだ、坊にお土産があるよ。少しここで待っていなさい」
そう告げて、が立ち上がる。その背を見送ると、手持ち無沙汰になった。
しばし庵の中を観察する。見たところ、必要最小限のものしか置かれていない。
だが、よくよく見ると、見慣れない奇妙なものがあちこちにある。
何故か、あまり無遠慮に眺めてはいけないように感じて、視線を空へと戻した。
「待たせたね、坊。私の手作りで悪いけど」
そう言って、は自分の目の前に、ゆっくり手を持ってくる。
視界に入った黒い物。刀の鍔で作られた眼帯だった。
「今みたいに、布で巻いているのも悪くない。
だけど、こっちの方が坊には似合う気がするんだ」
―――さあ、目を閉じて御覧なさい。
その言葉に、驚くほど素直に従っている自分がいた。
いいこだ、と告げられるその声は、どこまでも耳に優しい。
閉ざされた視界で、思う。に逆らえる獣など、いないのではないか、と。
は、獣の警戒心を無くさせるような、不思議な雰囲気を身に纏っていた。
結局自分も、に飼い慣らされた獣の内の一匹なのだと気付く。
妙に笑い出したくなった。だが、不快ではなかった。
右目に幾重にも巻いた布をそっと外される。
酷いものだ、と自分でも思う傷跡を、は見たはずだ。
だが、は何も言わなかった。侮蔑することもなく、慰めることもなかった。
それが何故か、ひどく心地良かった。
そのまま付けると肌に悪いから、と間に布のような物を挟まれ、眼帯を付けられる。
頭の後ろで紐を結ばれる感触がして、耳元で声がした。
「…OK. 坊、目を開けて御覧なさい」
「おうけい?」
「いいね、ってことさ」
そっと、左目を開ける。
が嬉しそうに視線を緩めた。
「うん、最高にcoolだ」
「くーる?」
「粋、ってことさ」
また、今度来たら色々と話してあげよう。さあ、気をつけてお帰り。
そう言って手を振るに見送られて、庵に背を向ける。
きっと、冬の間はここは雪に閉ざされてしまうだろう。
―――次に来れるのは、春か。
それを何処か待ち遠しい、と思っている自分には、もう驚かなかった。
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09/08/12