06:情けは人のためならず
雨のにおいがする。
5時限目の生物の授業が終わったとき、ふとそう思った。
朝の記憶をえんやこらと掘り起こすと、今日の天気予報は晴れのち雨だった。
お天気お姉さんの言葉通りならば、なるほど確かにそろそろ降りだしてもおかしくはない。
雨かあ。ぽつりと呟いたその言葉に、いつも通り目の前で突っ伏していた背がむくりと起き上がる。
寝起きで少しとろりとした目が窓の外を見て、その後私の方を見た。
「おはよう、佐助」
「おはよ、さん。何、雨降ってんの?」
「いや、まだ降ってない。けど、雨のにおいがするよ」
「ふぅん」
窓ガラスの向こう側には、どんよりと薄暗い空が見えた。
これは本格的に降ってきそうだ。そう思いながら、生物の教科書を机の中に入れる。
佐助は私の机に肘をついて、眠そうな顔のままこてりと首をかしげた。
オレンジ色の髪がゆらりと揺れる。やわらかな髪で羨ましいことだ、と
湿気で膨張しつつある自分の髪の毛に、アンタもっと頑張りなさいよとエールをおくる。
「さんって、鼻いいの」
「100m先の自宅の晩御飯のメニュー当てたことはあるよ」
「それってかなりいい方なんじゃないの?」
「だったら嬉しいなって思ってる」
そんなことを言っていると、廊下の方が騒がしくなった。
ダダダダダダダ。だんだん近づいてくるその足音。
佐助を見ると、彼はなんともいえない微妙な顔で微笑んだ。
「来るね」
「あー、さんにも分かっちゃう?」
「勿論分かるよ。ほら、3、2、1」
「佐助ェ!」
指折りカウントダウンをしていると、教室の前の方にあるドアから
我らがヒーロー真田君が飛び込んできた。タイミングばっちりだね!と拍手。わーパチパチ!
真田君は体育が終わった後のようで、半袖のTシャツとジャージ姿。
逞しい腕がたいへん眼福であります隊長!と一人心の中で敬礼する。筋肉って素晴らしい。
ずかずかと教室の中へ入ってくる真田君に、佐助は呆れたように息を吐いた。
「どしたの、旦那。また教科書忘れたの?」
「失礼だぞ佐助!忘れたのは傘だ!」
「はぁ?俺様今日はちゃんと傘持ってけって言ったじゃん!」
「すっかり忘れておった!」
「えー…」
どーん!と効果音が付きそうなほど堂々とした仁王立ちで言い放った真田君に、
佐助は眉間に皺を寄せた。何か考えるように両手の指を組んだ彼は、とても苦い表情だ。
「って言われても、俺様こないだ旦那に置き傘貸しちゃったから、予備ないんだよね」
「なッ!それは真か?!」
「嘘ついてどうすんの」
「佐助は持ってるんだよね?じゃあ相合傘すれば良いと思うよ」
首を傾げてそう言った私に、真田君はその手があった!とばかりに表情を明るくしたけど、
対照的に佐助はすごく嫌そうな顔になった。文句があるなら言いたまえよ、君。
「男が相合傘って何そのしょっぱい光景。涙が出ちゃう」
「あー、それもそっか。ごめんね佐助、私も想像したらしょっぱくなっちゃった」
きょとんとした様子で、某は気にしないぞと言っている真田君はかわいい。けどスルーする、ごめん。
さてと。しょうがないのでここは私が助け舟を出してあげましょう。
手を伸ばして、机の脇にかけてあったお気に入りの鞄を開けた。
ポーチやお菓子を掻き分けて、底の方から一本の折り畳み傘を取り出す。
色は綺麗な青。特に飾りもついていないので、これなら男性でも持てるでしょう。ヨシヨシ。
にかりと笑って、その傘を真田君へと差し出す。
「これを貸してあげよう、真田君」
「し、しかし良いのか?これは殿の傘では?」
「実は昇降口んとこに一本置き傘しててね。これは予備だから大丈夫!気にしないで」
「ということはさん毎日傘持って来てんの?」
「備えあれば憂いなしだよ、佐助!実は雨女なんだよ悲しいことに」
「ふぅん」
「どうでもいいって反応は結構傷つくよ佐助」
「それでは有難く頂戴仕る、殿!この御礼はいつか必ず…!」
真田君は良く通る声でそう言い、満面の笑みを浮かべた。
その表情が見れただけで、なんか今日は良い日だね!と思えるのだから素晴らしい。
こちらこそ眼福です有難う御座います。走り去っていく真田君の背中に向かって拝んでいると、
あ、降ってきたねと佐助が呟いた。その言葉通り、窓にぽつりぽつりと水滴が付いていた。
窓の外を見ている佐助のオレンジ色の頭を見ながら、次の授業の教科書を取り出す。
そういえば、佐助の髪の毛はやわらかいけど湿気には強いのかな。雨の日には爆発したりしないのかな。
爆発した佐助の髪の毛を想像したら、こみ上げてくる笑いを抑え切れなくて机に突っ伏した。
不審そうな声で「サーン?」と肩を叩いてくる佐助は無視。ムシムシ。
机に突っ伏してプルプル震えてる私の頭に、
どうせまたしょうもないこと考えてるんでしょと佐助の声が降って来て、
おまけに大きな手のひらまで降って来た。べしんととても良い音が鳴る。ついでにチャイムも鳴る。
痛いよ佐助さん、と起き上がって文句を言えば、既に佐助は机の上に突っ伏してた。
あまりの早業に怒りを忘れて内心拍手する。本当に佐助は良く寝る子だ。
つられて私もその授業では寝てしまった。ぐう。
ざああ、ざああ、という雨の音をBGMに、私は昇降口で間抜けに突っ立っていた。
腕を組んで考える。うん、想定外だ。全く持って想定外だ。悲しみだ。
まさか置き傘がなくなっているだなんて。お父さん許しませんよと内心叫んでみても空しいだけだ。
どうするかなあとため息を吐く。濡れて帰るのは趣味じゃない。そんな趣味は嫌だ。
「オー、マイ、ガ」
「何言ってんのさん」
私の小さな声は何時の間にか背後に立っていた佐助に見事に拾われた。
うん、そんな呆れたようにこちらを見なくてもいいと思う。
深い緑色の傘を持つ彼は、授業中あれだけ睡眠をとっていただけあってとても元気そうだ。
なんだそのギャップ。夜の蝶だったのか佐助。これから夜の街に羽ばたきにいくのか。
「間抜けな話なんだけどね」
「うん」
「置き傘がさ、なくなっててね」
「あらー」
井戸端会議中のおばちゃんみたいな声で佐助が言う。
かわいそうに、なんて全然かわいそうに思ってない声で言うので、
かわいそうでしょ、と私も棒読みで返した。実際心の中は悲しみでいっぱいだよ溢れちゃうよ。
でもまだ私には最終手段があるから平気だ、と気をとりなおす。
「うん、めんどくさいけど職員室に借りに行くとします」
「あー、そういえば入り口に忘れ物の傘あったね」
「この際柄はどうでもいいよ。レトロ花柄withオバチャン風味とかでもいいよ!」
鼻息荒く拳を握り締め、じゃあね佐助、また明日ね、と踵を返す。
目指すは職員室だ。階段上らないと。ざあざあという雨音に混じる靴音。
静かな廊下に響くその靴音は、二人分。ヒィお化け!って訳ではなくて。
佐助が後ろからついてきていた。
階段の踊り場で、私は下の方にいる佐助に声をかける。
「どうしたの佐助、おうちにお帰りよ。ホーム!」
「面白そうだから見届けてから帰るよ」
「人の不幸を笑う奴は馬に蹴られるんだよ」
「さんパンツ見えそう」
「乙女のスカートの中身は神秘のヴェールに包まれてるんだよ佐助!」
「さんってたまに発言がお馬鹿さんだよね」
笑いながら後ろからついてくる佐助は一度馬に蹴られてしまえ。
えいやっと職員室のドアを勢い良く開けて、担任を呼んだ。
「せんせー」
「失礼しますだろー、。どうしたんだ猿飛まで」
「失礼しました失礼します、傘ありませんか」
「なんだお前、忘れたのか?」
「持って来てたんですけどなくなってまして」
「あー、忘れてきたやつに拝借されたんだな」
「先生、ホラ、ここに忘れ物の傘あったじゃん。貸したげてよ」
背後に立ってる佐助が入り口にある傘立てを指差すと、
担任は困ったように首を横に振った。嫌な予感がビンビンする。
「すまんな、さっき別のやつに貸したとこだ」
思わずオーマイガ、と呟いた私に、先生はもう一度すまんな、と言って頭を下げた。
先生はさっきの佐助と違って心底同情したように言ってくれたけど、それはそれで微妙だ。
しょんぼりと肩を落として昇降口へととぼとぼ歩く。万事休す。
ぺたんぺたんと廊下に響くローファーの靴音も悲しげだ。
「残念だったね」
「全くだ。真田君の笑顔で今日は良い日だと思ったんだけどなあ」
「さんってほんと旦那のこと好きだよね」
「そうだね!」
しょんぼりから一転、力いっぱい頷いた私を見て、佐助はおかしそうに笑う。
そして、でも恋じゃないんでしょ?と笑いながら首を傾げる彼に、驚いた。
何にって、佐助のその素晴らしい洞察力にだ。
友達にもちゃんって真田君のことが好きなんでしょ?と言われるのに。
良くわかったねえ、とすっかり感心して言う私に、さん分かりやすいからね、と佐助はまた笑った。
やっぱりその表情は、我が子を褒められた母親の顔にそっくりだ。全く親馬鹿だなあ佐助は。
「あのね、真田君の笑顔って、裏がないよね」
「そうだね」
「日本人ってさ、曖昧な笑みが多いでしょ。勿論それは大事で便利なんだけどね」
「そうだね」
「でも、真田君はいっつも真っ直ぐでしょ。だから眩しくて大好きなんだあ」
「そうだね」
佐助はそうだね、としか言わなかったけど、とても嬉しそうに目を細めていた。
優しい顔だ。真田君のことを本当に大事に思っているというのがよく分かる。
そして彼は私に傘を差し出した。深い緑色の、大きな傘だ。
「佐助?これは一体?」
「貸したげるよ。元はと言えば旦那のせいでしょ、傘ないの」
「いやあれは私が貸したくて貸しただけだよ。佐助はどうすんの」
「俺様走るの早いからね」
「知ってるよ。でもそれって濡れて帰るってことじゃん!それは良くないよ佐助」
「いいからこういうのは黙って受け取るもんだよさん」
はいコレ、と佐助が言って、その大きな手が私の手に触れた。
家事をいっぱいしてるんだろう、ざらっとした指先が有無を言わさず私の手に傘を握らせる。
駄目だ、と内心息を吐いた。勝てる気が全くしない。流石真田君の保護者。
「…分かった、ありがたく借りる」
「うん。旦那と違って物分りが良くて助かるわー」
「でも帰るのは駄目だよ佐助。10分!待て!」
は?と訝しげに首をかしげた佐助を置いて、私は深緑色の傘を握り締めながら自転車置き場へと走った。
10分後、大急ぎでコンビニ傘を買って戻ってきた私を見て、佐助は珍しく目を丸くした。
そして「ほんと、さんってどっかおかしいよね」とけらけら笑ったのだ。失礼な男だ。
11/05/14
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