元就さんの綺麗な髪から、ぽたりぽたりと雫が落ちる。
私は、ただ呆然とその様子を見ることしかできない。
つう、と一際大きな雫が額から頬へと、そして細い顎へと伝って、ぽたりと落ちた。
微動だにしなかった元就さんが、ゆらりとこちらを振り返る。
絶対零度の眼差しが突き刺さった。途端に事態を把握し、ガクガクと震えだす私の体。
ごとりと鈍い音を鳴らし、手から硯が零れ落ちた。
番外編 少年、万事を休する
バキィッと、人体からは鳴ってはいけない音が私の脳天から響く。
しかし、しかし私は甘んじてこれを受け入れなくてはならない。
ぐはっと情けない悲鳴を上げて畳の上を転がった私を、元就さんは慈悲も無く踏み潰す。
細身の体からは想像できない力に肋骨がみしりと悲鳴を上げたけど、今回ばかりは自業自得だ。
「…。何か、言い残したことはあるか」
「すみません本当にすみません決してわざとじゃなかったんです」
「それが貴様の最後の言葉になろうとはな」
「あああ命ばかりはお助けを!」
「墨一つ満足に磨れん奴がこの世にいるとはな、なんとも嘆かわしいことだ」
ぽたり、ぽたりと元就さんから滴り落ちた黒い雫が、私の着物にぽつぽつと染みを作る。
ああ、藍色じゃなくて黒の着物でよかった。ってそんなことを心配している場合じゃない。
何故こんなことになったのか。
最近は城に訪れると、当然ように元就さんの執務室に通される。
元就さんは仕事が早いので、いつもは私が来る頃には執務も大体終わっているのだけど、
今日はまだ机に向かっていた。珍しいこともあるもんだ、と目を丸くする。
しばらくは邪魔をしないように黙って部屋の隅っこに座っていたのだけど、
暇すぎて耐えられなくなり、何か手伝いましょうかと元就さんの背に声をかける。
墨が切れそうだ、作れ。と簡潔に告げられ、硯と墨、水差しを渡された。
がってん承知と鼻息荒く受け取り、部屋の隅っこでズリズリズリズリと墨を作る。
単純作業は結構好きだ。ふんふん鼻歌を歌いつつ手を動かすと、あっという間に墨ができた。
さあ、いざ元就さんへ!と硯を持って勢い良く立ち上がって歩き出した私の目の前に、
びゅんっと何か赤いものが飛んできた。思わず目を瞑り、手で払う。ばしゃ、と水音がした。
恐る恐る目を開けると、足下には一枚の紅葉が落ちていた。そうか、風で部屋に迷い込んできたのか。
見てください元就さん、風流ですねえと言おうとして顔を上げた私の目に飛び込んできたもの。
頭から墨をぽたぽたと滴らせる、元就さんだった。手の中の硯が、やけに軽かった。
そして話は冒頭に戻る。
「貴様は一体何をしに来た。消されにきたのか」
「いえいえいえいえそんな滅相も無い」
「ほう、そうか、消されたいのか。望みとあらば今すぐ消してやろう」
「ぎゃ、痛い!痛い!さ、采配禁止!」
「貴様に指図される覚えは無い」
そうだけど。そうなんだけど!痛いよ!死んじゃう。
べしべしべし、と采配で私の頭を殴り続ける元就さんの手を止めたのは、必死で口にした私の一言だった。
「元就さん!とりあえず風呂!風呂で墨を落としましょう!」
「救いようの無い馬鹿の割にはまともなことを言うな」
ぴたり、と元就さんの手が止まった。
とりあえず寿命は延びそうだ。ほっと息を吐いた私の襟首を、ぐいっと元就さんが鷲掴む。
ぐえ、喉から情けない声が上がった。そのままずりずりと引っ張られる。
段差が、段差が体に当たって何気に痛い。しかし喉が詰まって声が出ない。なんということだ。
呼吸困難に陥っていると、ぺいっと投げられる。ごちん!と床に額が激突した。
私、いつか元就さんに殺される気がする。人は大変デリケートな生き物です。お取り扱いには十分注意して下さい。
くらくらと回る視界で辺りを見回すと、どうやら脱衣所のようだった。風呂か。
鈍く痛む額を手のひらで抑えつつきょろきょろと首を動かすと、既に服を脱いでいる元就さんと目が合った。
腰にはきっちり手ぬぐいを巻いている。いや、別に変態じゃないんで見たかったって訳じゃ無いけど。
行動早いなとぼけっとしていると、さっさと脱げと怒られた。元就さん、その発言は少し変態くさい。
「脱げって、なんで」
「責任をとって貴様が洗え」
そう簡潔に告げて、元就さんは浴室へと姿を消す。
それもそうかと納得して、私はぺいぺいっと着物を脱いだ。ああ、なんて貧相な体。
もうちょっとここに筋肉が欲しいなー、と上腕を触りながら浴室へ入る。
既に椅子に座って準備万端の元就さんから、呆れたような眼差しが突き刺さった。
「そんなに呆れるほど貧相な体ですかね、おれって」
「貧相だと自覚しているなら前くらい隠せ」
元就さんの言葉がぐさりと突き刺さった。男のプライドが傷付いた気がする。
しかしまあ元就さんの言う通りだ。前くらい隠そう。
きゅっと腰に手ぬぐいを巻きつけて、落ちないように結ぶ。
失礼します、と恐る恐る元就さんの頭に静かにお湯をかけていく。
「…元就さん、細いと思ってましたけど、意外と筋肉付いてますね」
「鍛えてない貴様と比べるな」
「最近は腕立て伏せとか、してるんですよ」
だって男の体って、以前の女の体に比べたら、特に鍛えなくても十分力があるように感じる。
日常生活に支障がなければいいのだ。力仕事はそれなりにできるし。
武器を使うか、使わないかなんだろうな。この筋肉の差は。
普通にしていても薄く筋肉が浮き出ている元就さんの腕を、羨望の眼差しで見つめる。
しかし作業の手は休めない。乾いて髪の毛にこびりついてしまった墨を、指で丁寧に落としていく。
綺麗な髪だから、キューティクルを傷つけないようにしないと。無駄なプレッシャー。
ああ、シャンプー欲しいな。そしたら一発で綺麗になりそうなのに。
「ねえ元就さん、成長期始まりましたか」
「…まだだ」
「…おれも、まだなんですよ。…遅くないですか」
「…遅い」
「…早く、身長伸ばしたいですね」
「…ああ」
はあ、と二人でため息をつく。早く大きくなりたいよ。腹筋割りたいよ。
お湯をかけながら、墨も綺麗に落ちた元就さんの髪の毛に指を通して整えていく。
ああ、落ちてよかった。元就さんの髪の毛が真っ黒になったらどうしようかと思った。
「よし、綺麗になった」
「当然だ」
そう言って元就さんが立ち上がり、浴槽へとざぷんとつかる。
溢れたお湯が、ざーっと私の足をなぞっていった。お、お風呂…!うずうずと体が疼く。
「元就さん、あの、その、ええと、」
「別に入っても構わん」
「やった、お風呂!」
よかった、お許しが出た!じゃぽんと浴槽につかると、これまたざーっとお湯が溢れた。
伊達の坊ちゃんのところのお風呂もいいけど、このお風呂もいいなあ。なんてったって広い。
そういえば元就さんのお城で風呂に入るのは初めてだ。こんないいお風呂があったなんて。
ふんふんとご機嫌で鼻歌を歌う私は、忘れていたのだ。
元就さんのお仕置きは、まだ終わってはいなかったということを。
「では、我は先に出る。はどうする」
「あ、おれもうちょっと入ってていいですか。あとで執務室行きますから」
「構わぬ」
元就さんの背を見送って、温かくて気持ちの良いお湯を堪能する。
ああ、ビバお風呂。素晴らしいお風呂。お風呂バンザイ。
ほかほかと温まった体で風呂を出た私は、脱衣所で首をかしげることになる。
「…あれ」
服が、ない。何も、ない。
あれ、あれ、おかしいな。脱衣所を引っくり返す勢いで捜索してはみたものの、
下着は勿論脱いだ着物も全て消えてしまっている。何故!と叫んだ私の足下に、一枚の紙がひらりと落ちた。
そこには綺麗な元就さんの字で、こう書かれていた。
『しばらくその格好で反省しろ』
さあ、と顔が蒼くなった。気がした。
見下ろした自分の体は、裸。申し訳程度に手ぬぐいが一枚。
これでは女中さんに助けを呼ぶこともできない。外に出たら変態決定だ。明日からこの城には入れないだろう。
忍びさんに助けを求めるのも無理だ。忍びさんは当たり前だが元就さんに忠実だ。
とりあえず風呂に入っておこうと浴室に戻ってみると、いつの間にやらお風呂のお湯が消えていた。なんということだ。
ぶるりと震える体を摩りながら、元就さんを怒らせてはならない、と私は思い知った。
09/05/03
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