「…、前から気になっていたのだが」
「なんですか」
着替えたばかりの浴衣の裾を翻しながら振り向くと、
真っ直ぐこちらを見る元就さんと目が合った。
と思えば元就さんは立ち上がって、すたすたとこちらへ歩いてくる。
元就さんは、私と同じ浴衣の上から深い緑色の茶羽織を羽織っていた。
浴衣には温泉旅館の名前が並んでいて、なんだか少し笑える。
怒られるから絶対口には出さない。まあ、私も同じの着てるんだけど。
とかなんとか思っていると、ぐい、と帯を掴まれた。
途端に腹が締まり、口から「ぎゃふ」と情けない声が出る。
「元就さんいきなり何するんですか。くるし」
「お前の帯の締め方は、おかしい」
真顔でそう言われて、私はとても驚いた。
旅館の浴衣の帯は、基本的に男物の浴衣と同じ帯だ。ってことはだ。
昔っから。あの頃からずっと、ずうっと、おかしかったってことか。
そのことに気が付いて、私は一瞬目の前が真っ暗になった。なんということだ。
番外編 いとしさはその指先に
「なんでもっと早く言ってくれなかったんですか」
「別に今更気にすることでもなかろう」
「だって。私あの頃から恥かきまくってるじゃないですか」
「旅の恥は掻き捨てと言うが」
「だってみんな覚えてるじゃん!はずい、まじはずい」
頬に手を当ててぎゃーぎゃー騒いでる私に構うことなく、元就さんは私の帯を結び直す。
確かに、女の人の帯の結び方や髪の結い方は色々教えてもらったけど、
男の人の帯の結び方というのは誰にも教わっていない。
10歳の少年が自分の着物の帯の結び方を知らなかったらさすがにおかしいだろうと思い、
あの頃は誰に聞くこともできなかったのだ。その判断は間違っていなかったとは思うけども。
見よう見まねでなんとなく「お、いい感じ」と思ったものをずっと採用してたんだけども。
そうか、あれは間違いだったのか、そうか。
へこんでいると、鮮やかな手つきで帯を結びなおした元就さんが口を開く。
「まあ、良く見なければ分からない程度ぞ」
「それはあれですか。あんま気にすんなってことですか」
しょぼくれながらそう言うと、元就さんはぽすぽすと私の頭を叩く。
ほんとに優しくなったな元就さん。へらりと顔が緩む。
「じゃあ浴衣もばっちり着たし、温泉行きますか」
「ああ」
自然と差し出された手にまた頬が緩んで、いそいそと手を伸ばした。
どうだこれが新婚パワーだ。これはすごいぞ。なんてったって元就さんが優しい。
並んで出た戸の横には『毛利ご夫婦様』の文字。まだ慣れなくて、妙にくすぐったかった。
その後私達は温泉をばっちり堪能し、部屋で豪勢な夕食に舌鼓を打ち、
部屋の隅っこにあった囲碁でぎゃいぎゃいと対戦したりした。
囲碁は負けた。将棋とか囲碁とか、昔から元就さんに勝ったことがない。
私もそんなに弱くはないはずなんだけどなあ、と眉を寄せる。が、思い直す。
元就さんはそういえば智将だった。そりゃあ勝てる訳がない。
しかしその後やったオセロでは私が勝った。そうだ、私は昔からオセロだけは強い。
差は僅差だったけども、勝ちは勝ち、勝ったもん勝ち。
へへん、と得意気に笑うと、元就さんが舌打ちした。さっき囲碁で圧勝したくせに大人気ない。
むきになった元就さんが「もう一度だ」と言うので付き合っていたら、
盤面が半分埋まった辺りで「もう寝るか」と言われた。そんな。
どうやら飽きたらしい。なんということだ、と思いながら片付けた。
せっかく角取れてたのに。くそ。
並んで敷かれた布団にダイブし、ごろりと天井を見上げた。
ふかふかのお布団だ。うれしいな。枕に顔を埋める。
「お日様のにおいがする」
「そうだな」
横を見ると、元就さんも布団に入っていた。その表情はどこか柔らかい。
お日様のにおいに包まれて不機嫌になる人っているんだろうか。いや、きっといない。
「元就さん」
「なんだ」
「って、呼んでください」
「…お前はもう、ではなかろう」
「最後に、一度だけ」
「何故、そう拘る」
「いやあ、なんというか。好きなんですよね」
「何がだ」
「元就さんに呼ばれる、響きが」
私が過ごした、ひと時の夢のような、不思議な10年間。
あの時間があったから、私は今ここでこうやって、元就さんと肩を並べている。
未だに原因も分からないし、分からない事だらけだ。でもそれでもいいと思う。
これから二人でゆっくり歩んでいく人生の中で、その意味を知ればいい。
焦ることはない。焦ってやったところで、この私だ。どこかでこけるに決まってる。
「…」
「はい、元就さん」
「」
「幸せですよ。元就さん」
「」
「ありがとう。元就さん」
「…、」
「好きですよ。元就さん」
「これから先、ずっと傍にいろ」
「ははっ。勿論」
暗闇の中で触れ合った指先は、太陽のように温かかった。
09/08/02
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