目に眩しい新緑が、徐々に顔を出す季節。
一人の商人が、散り行く桜と共にその姿を消した。





番外編 おゆきなさい、おゆきなさい





数年前、ぽつりと城下にできた小さな店には、いつも様々な人が訪れた。
町の住人を筆頭に、老若男女、地位も世代も関係なく、その店にはよく人が訪れた。
その店の主だった商人は、よく喋り、よく食べ、よく笑った。

城に出入りし始めた当初は、忍びも得体の知れない商人に疑いの眼差しを向け、
いつ何時城主に危害を加えるやも知れぬ胡散臭い存在として警戒していたものだったが、
常に警戒するにはあまりに商人は無防備で、無頓着で、無邪気だった。
数年も経過すれば、城主と二人きりにすることはなくとも、忍びの疑いの眼差しは緩み、監視の目も減った。
城主とのやり取りを、どこか微笑ましい眼差しで見守る者もいた。



「元就様」
「…なんだ」



元就様と呼ばれ、返事をした城主の傍には、その商人が横たわっていた。
ともとも呼ばれた商人は、目を瞑り、微動だにしなかった。抜け殻のようだった。
先程商人は息を引き取っていた。町の子どもを庇って負った、刀傷が致命傷だった。
不思議な話をすることで有名だった商人は、最後まで、どこか夢のような話をしていた。
しかし、その口が開かれることは、もう二度と無かった。



「…如何、致しましょうか」



城主の背中からは、何の感情も読めなかった。
ただ、無言で商人の物言わぬ顔を見下ろしていた。



「…海に」



そう、城主は呟いた。
海。忍びも聞いたことがあった。
商人が、酒に酔いながら話していたことが脳裏に浮かぶ。





『ねえねえ、元就さん』
『何だ、鬱陶しい』
『死んだらどうしますか』
『また、随分と突然だな』
『体をね、どうすんのかなって』
『一般的には土葬が主だ』
『あれ、おれの故郷じゃ、火葬が主でしたよ』
『随分と、裕福な故郷だな』
『え、そうですか?』



火葬は費用がかかるものだ。
酒のせいで、薄く頬を染めている商人は、そのことがよく分かっていないようだった。
何か楽しいことを思いついたみたいに、商人は頬を緩ませて言葉を紡ぐ。



『おれは、沈みたいな』
『沈む?』
『元親さんが、言ってんのを聞いたことがあって』



海の向こうの鬼の名を気安く呼んだ商人は、諸国を相手に商売をしていた。
普段は間抜けで腑抜けた男であったが、商売の才については城主も忍びも一目置いていた。
元就さんと、初めて会った海。あそこで、眠りたいなあ。
へらりと笑って、商人は手にしていた杯を飲み干した。
その時のことを、忍びも、城主も覚えていた。










商人の親…実際には拾い親が、商人の遺体を引き取りに来た。
跡継ぎも作らず逝っちまいやがった、とその男は笑ったが、どこか苦笑にも似た笑みだった。
商人が最後に書いた手紙を、城主が投げつけるような手つきで渡す。
おっと、と言いながら手紙を受け取った男は、その内容を見て、困ったように笑った。
ったく、最後まで変なこと言いやがって。困ったガキだよ。
小さく呟いたその表情は、ただ子を思う親の顔だった。

葬儀は行われることはなく、商人の亡骸は、初めて商人と城主が出会った海へと運ばれた。



「『色んな人に寝顔を見られると恥ずかしいから、こっそり海に沈めてください』だとよ」
「まったく、下らぬ」
らしいじゃねぇか」



小さな船の上には、商人の拾い親と、城主と、船の持ち主である海の向こうの鬼が乗っていた。
何処から話を聞きつけたのか、拾い親と城主が海へと向かうと、そこには船を止めた男の姿。
敵意が無いことをこちらに示すためか、船は武装していない簡素な作りの小船であった。
俺にだって、見送りくらいさせろよ。そう言って、海の向こうからやってきた鬼は笑った。



3人の男と何人かの忍びに見送られ、商人は海へと旅立った。
ざぱん、と派手な音を鳴らして、泡に包まれながら商人の姿は見えなくなった。
その体は沈んだというより、消えた、と言う方が正しかった。しかし確かめる術はなかった。
成る程、神隠しか、と小さく城主が呟いた。その言葉の意味を知るのは、忍びのみであった。

誰も泣かなかった。この時代では、よくあることだった。

泡がぶくり、と消えていく。
拾い親の男は「あいつが世話んなったな」と横にいる二人の男に話しかけた。
「我は何もしていない」と城主は答え、「俺だって、何もしてねぇよ」と鬼も答えた。
示し合わせた訳でもなかったが、3人同時に懐から小瓶を取り出した。
気が合うな、と嬉しそうに拾い親の男は笑った。蓋が開いた時の香りからすれば、中身はどれも酒であった。
商人は、忍びが知る中でも一番酒に弱い癖に、一番酒を飲みたがる男だった。
酒好きなのだ、という印象があった。実際、それは事実だった。

とぷとぷとぷ、と3本の瓶の口が鳴る。
酒が海へと落ちて行き、商人の体が消えた辺りの海水に溶けて混ざった。
ちょ、混ぜると悪酔いするからやめてください!と、情けない商人の叫び声が聞こえた気がした。
が、波の音と風の音に紛れてよく分からなかった。海鳥だけが、鳴いていた。








一人の商人がこの世を去ったことは、緩やかに諸国へと伝わっていった。
商人がやっていた商売は、拾い親であり、先代の店主である男が引き継いだ。
俺もまだまだ現役だ、跡継ぎは当分いらねぇなぁ、と商人と同じ名をしたという男は笑った。

商人が暮らしていた、小さな店が墓代わりだった。
主人を失ったその家は、店としては機能していなかったが、
盗人に荒らされることもなく、棚に埃が溜まることもなかった。
まるで商人が今でもそこに住んでいるかのように、部屋の一輪挿しには毎日違う花が飾られていた。
金色や橙色の髪をした他国の忍びを筆頭に、他国の武将が時折訪れているとの情報もあったが、
「始末しますか?」と忍びが問うと、城主は「好きにさせてやれ」と黙認した。

城主自身も、時折あの店へと訪れているようだった。
忍びも何度か城主の護衛で訪れたが、そこでは、只々静かな時間が流れていた。
武器や暗器も取り扱っていたその店は、けれども戦とは無縁の、穏やかな空気に満ちていた。
緩やかで、能天気で、掴みどころのない、あの商人のようだった。






商人がこの世からその姿を消して、ふたつ季節が巡った頃。
という男が手にしている商品の目録に、一冊の本が加わった。
無地の表紙に「ネタ帳」と、それだけ書かれた地味な本だった。
しかしその本は、よく売れた。




「ふふ、これをごらんなさい、つるぎよ」
「何でしょうか、謙信様。…、これは」
「あきびとは、まことにゆかいなことをしますね」
「…はい」


「まつ姉ちゃん!利!」
「なんですか慶次、騒がしい!廊下は走ってはいけませぬ!」
「そうだぞ慶次、まつの言うことはちゃんと聞け!」
「あーもう、そんな小言はいいからいいから!これ見ろって!」
「…まあ!慶次、どこでこれを?」


「佐助ぇ!佐助はおらぬか?!」
「はいはい、っと。もー、何だよ若、俺忍んでるのに」
「先程屋敷に来た殿が、こんなものを売って行ったぞ!」
「ちょ、若ってばまたしょうもないもん買ったの?の口車に乗るなってあれほど…」
「しょうもなくなどない!見ろ!」
「しょうがないなぁ…、…ははっ、こりゃまた、」


「政宗様、何やらご機嫌がよろしいですね」
「Ha、見ろよ小十郎!本当に退屈させねェ奴だ」
「これは…、本?」


「あれ、兄貴が本を読むなんて、珍しいっすね」
「そうか?」
「しかもなんだか楽しそうじゃないですか」
「ははっ、こりゃあなぁ、特別だ」








「…これは、」
の手紙に書いてあったんだよ」



そう言って、という男は城主の前に一冊の本を置いた。
客間の畳の上にやけに馴染んでいるその本を、城主は怪訝そうに手に取る。



ねえさん。おれの家の引き出しに、『ネタ帳』というのがあるんだ。
さんや、いろんな人に、くだらない話をたくさんしたよね。
実はその話、時間がある時に全部それに書いちゃってたりしちゃうんだよ。
ねえ、それさ、商品にしたら売れるんじゃないかな。自意識過剰かもしれないけど。
跡継ぎ、残せなかったから。せめて商売になるものだけでも、さ。



「まったく、立派な商人だよ、あいつぁ」
「貴様に似て、卑しい奴だ」
「まったくだ」



地味な色合いの本をぱらぱらと捲ると、お世辞にも上手いとは言えなかった商人の文字が並んでいた。
その合間合間に、商人がふざけて書いたと思われる妙な落書きがあった。



「できるだけ、あいつの書いたものをそのまま写させた。読みにくいったらありゃしねぇ」
「まったくだ」



ここにはいない商人が、失礼な!と怒りつつもどこか楽しげに笑ったかのように、緩やかな風が吹いた。
仄かに海の香りのするその風は、青く、遠く抜けた空へと天高く舞い上がっていった。





09/05/07