その光景を目にしてしまったのは、本当に偶然だった。
お茶を淹れ、殿の部屋へと運んでいた時のこと。
ふと、耳慣れない声が聞こえてきた。しっとりとした、優美な女性の声。
何処から、と思い視線を彷徨わせると、中庭に二つの人影が見えた。
腕を組んで立つ殿の傍に、まさに妖艶と言い表すのが相応しい美女。
二人の距離は、あまりにも近い。
思わず足を止め、気配を消す。そのまま息を殺して耳を澄ます。
「…そうか、わざわざご苦労だったな」
「うふふ、殿のためでしたら、何時でも、何処へでも駆けつけますわ」
「そういうことは言う相手を選べよ」
「あら、心外だわ。わたくし、殿以外にはこの様なこと言いませんわよ」
「あーはいはい、そりゃどうも」
「つれないお方。でも、そんな殿が、わたくし大好きなの」
美しく笑った女に、胸の真ん中が、ずくりと鈍く痛んだ。
番外編 お嬢さんの恋の立ち聞き
「あ、稲ちゃん」
馴染んだ気配を背後に感じて振り向けば、中庭に面した廊下に稲姫が立っていた。
嬉々として笑みを浮かべ愛しい名を呼べば、びくりと肩を震わす。
えっ、俺、何もしてねぇよ。普段の彼女には無い反応に、疑問を感じる。
こっちにおいでと声をかけると、手に持っていたお盆を置いて、どこか重い足取りで歩いてきた。
俺の隣に立つ人物に固い目線を送り、静かに頭を垂れる。相変わらず礼儀正しいねえ。
「…お初にお目にかかります、稲と申します」
「あら、貴女が噂の稲姫様ね。うふふ、可愛らしいお方だこと。貴方にそっくりだわ」
「馬鹿言うな、稲姫の可愛さに敵うものがこの世にあると思うのか」
「わたくしからすれば、貴方も十分可愛くてよ、愛しいお方」
「あんまり嬉しくないねぇ」
軽口を叩いていると、稲姫が急に「失礼します」と告げて足早に駆け去っていった。
どうした稲姫、俺の愛しい嫁よ。遠ざかる背を呆然と見つめていると、ぽんぽんと肩を叩かれた。
振り返ると、目の前には妖艶な笑み。俺の笑みと似ているとよく言われる。心外だ。
「どうしよう、俺の嫁がおかしいぞ」
「きっとわたくしに嫉妬なさったのだわ。ふふ、本当に愛いお方ね」
「嫉妬?まさか。それよりやらんぞ」
「うふふ、それより早く追いかけて差し上げたら如何かしら」
それもそうだ。すまない、ご苦労だったと声をかけて、稲姫が駆け去った方向へと足を向ける。
案外、稲姫はすぐ見つかった。中庭から陰になっている桜の木の下。そこに稲姫はいた。
「…稲ちゃん、どうしたの」
「…殿…」
虚ろな目で俺の姿を見たかと思えば、すぐに目線を反らされる。
いつもの凛々しい彼女らしからぬ行動、態度はとても新鮮で。
不謹慎で申し訳ないんだが、とても苛めたくなってきてしまうのだから困ったものだね。
まあ、そこはグッと堪えて、優しく彼女の名を呼ぶ。
「稲姫、おいで」
「…随分と、あの女性と仲睦まじきご様子でしたね」
硬い声色で告げられたその内容に、驚いた。
表情には出さないけど本当に驚いた。まさか本当に嫉妬していたとは。
堪えきれずに口元には笑みが浮かぶ。原因は言わずもがな、嬉しさからだ。
「…とても艶っぽい、殿のお好きそうな女性だったじゃありませんか」
「まあ、艶っぽいと言えば艶っぽい」
「稲などに構わず、あのお方とお話してきては如何ですか?」
嗚呼、駄目だ。嬉しすぎる。稲姫よ、君は俺を殺す気か。
刺々しく、それでいて少し寂しそうな稲姫の表情と声に、どうにも辛抱堪らなくなった。
がばりと勢い良く、そのか細い体躯を背後から抱きしめる。抵抗は些細なものだ。
腹に肘を入れられても、脛を蹴られても、今の俺には痛みなど悦びに変わるだけだ!
むしろもっと甚振りたまえ、大歓迎だ。にやにやと緩む口元はしょうがない。
「ッ離して、下さ、い!」
「稲姫、いいことを教えてあげようか」
「聞きたくありません!離し」
「あいつ、男だよ」
ぴたり、と稲姫の抵抗が止まる。あれ、もう暴れてくれねぇの?
少し物足りなくなったので、稲姫の項に鼻を擦りつけた。頬に触れる美しい黒髪が気持ちいい。
「お、とこ?」
「其の通り。幸村、分かる?」
「も、勿論です」
「幸村に仕えてる忍びで、霧隠才蔵ってぇの、あいつ。男前な名前だろ」
「で、では、何故あのような格好を?」
「さぁ、趣味なんじゃねぇの。今日は幸村からの報告でこっちに来たんだよ」
いつも妖艶な笑みを浮かべている才蔵の本当の姿というものを、俺は見たことが無い。
男だということは最初に会ったときに本人から告げられた。幸村とあんぐり口を開けたのを覚えている。
優秀な忍びなのは認める。ああ、認めるさ。だけどな、女装は生理的に受け付けない。勘弁してくれ。
変化の術を使っているから余計に性質が悪い。おまけに腕がいいものだからさらに性質が悪い。
「やたら俺に構ってくるんだけど、野郎だって思うと嬉しくもなんともないね」
それに、今俺は稲姫一筋だし。そう告げると、稲姫の耳がほんのり朱に染まった。
ああ、なんと美味しそう。食べちゃいたい。咥内にじわりと湧いた唾をごくりと飲み込む。
「それにしても、稲姫が嫉妬してくれるだなんて。俺、自惚れてもいいの?」
「な、何がですか」
「今日こそは子作りしようね、稲ちゃん」
そう言って彼女の耳をかぷりと甘噛みすれば、稲姫の渾身の一撃が腹に決まった。
無様に俺は地に伏せる。しまった、やりすぎたか。
肩で息をして、頬を真っ赤に染めて稲姫はこちらを睨む。涙目で。
背筋がぞくりと快感に震えた。誘ってるとしか思えない。苛めたい。苛められたい。
じくじくと痛む腹を押さえ、にやりと笑う。稲姫が石を投げてきた。
辛うじて避けたが、武器を使うのは卑怯じゃあないのかい、稲姫よ。
「ふふふふふ不埒です!!」
「なんだよなんだよ、またお預けかよ!俺いつまで我慢すればいいんだよ!」
「…そんなの、知りません!」
がくりと肩を落とす。俺、早く同意が欲しい。
罵られるのは嬉しいけど、それより俺、手を出したい。
項垂れていると、耳にぼそりと稲姫の小声が届いた。
「今日かもしれませんし、明日かもしれません」
がばっと勢い良く顔を上げたときには、既に稲姫の背は遠く。相変わらず素晴らしい脚をお持ちで。
地に蹲ったまま緩む口元を押さえられずにいると、いつの間にこちらへと来たのやら。
才蔵が目の前で妖艶に微笑み、俺に向かって手を差し伸べる。
「ご苦労だった、というのはもう帰ってもいいという意味だったんだがな」
「あら、やっぱりつれないお方ね。わたくしのお陰でしょう?」
「まあ、幸村に俸禄を上げるようには言っておくさ」
白くて細い、女性のような、というか女性にしか見えない才蔵の手を取って立ち上がる。
嬉しそうに笑った才蔵と似ていると言われる表情で、俺も笑った。
さあ、稲姫を追いかけないと。じくりと腹が痛んだが、それはとても甘い痛みだった。
09/05/22
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