僕は眼下に広がる光景に、深く深くそれはもう肺の息を全て吐き出すほどに深くため息を吐いた。
吐き出した息は、あっという間に潮風に紛れて消える。余韻なんてあったもんじゃない。
ゆらりゆらりと絶え間なく揺れる船の上では、大の大人が寄って集ってお祭り騒ぎだ。
鼓膜を揺らすのは、濁声の『アニキ』という声援。いい加減聞き飽きたそれに、僕は目を細める。
「うおお、アニキー!」
「アニキ、アニキ、アニキ、アニキ!!」
本当にいつもの事ながらすごい声援だ。ついていけない。そしてついていく気もない。
僕は潮風がごうごうと吹いている見張り台の上から、呆れた眼差しで凄まじい騒ぎの甲板を見下ろした。
彼らは先程からアニキ、アニキと叫んでいるが、別に船の上にいる皆が兄弟だとかいう訳ではない。
そんな恐ろしい大家族はこの海には存在していない。勿論陸にもないと思われる。
しかしこの船に乗る者達は、別の意味の家族ではある。長曾我部軍という名の家族だ。
僕もその一員であり、彼らの家族である。だけど、この騒ぎに参加する気にはなれない。断じてなれない。
それは幼い頃にこの船に乗った時からそうで、今もこれからもおそらくずっと変わらない。
「お前らぁ、鬼の名前を言ってみろ!!」
「うおおお、モ・ト・チ・カ!!」
お決まりの阿呆なやり取りが聞こえてきて、思わず眉間に皺が寄る。
目を瞑り、その皺を親指でぎゅうと伸ばす。しかし伸ばしてもすぐに皺が寄るので意味がない。
声援の中心に居るのは、僕の兄貴だ。ちなみに阿呆なことを言ってるのも僕の兄貴だ。
兄貴。先程から聞こえてくるアニキと同じ響きだが、意味が違う。
僕の言う兄貴とは、血が繋がっている兄貴のことだ。モトチカ、元親、長曾我部元親。
四国を統べる長曾我部軍の主。それが、僕の兄貴だ。
「いいぞお前ら、じゃあ鬼の弟の名を言ってみろ!!」
「のアニキ!うおおおお!」
米神にひくりと血管が浮かんだ。原因は呆れと苛立ち。
言わずもがな、阿呆なことを言う兄貴と、それに律儀に答える船員に対してだ。
何が悲しくて、濁声の男達に自分の名を叫ばれなくてはならないのだ。鬼の弟って何だ。子鬼か。
というか僕はこの船で一番年が下だ。年上の男達にアニキと呼ばれる覚えはない。
そんな僕の思いとは裏腹に、甲板に居る男達の熱は徐々に上がっていく。
「アニキ!アニキ!アニキ!アニキ!」
「よっしゃ、次はお前の番だぜ!…っておい、?ちょ、何処行った?!」
「アニキ!のアニキなら最初からいやせんぜ!」
「んだとォ?!おい、何処だ?!兄ちゃんを一人にするんじゃねぇ!」
「うおおお、アニキが寂しがっている!」
「アニキ、泣かないでー!!」
「、何処だ?ー!!」
「アニキーィィ!!」
大騒ぎの甲板を見下ろして、絶対に見つかるもんかと見張り台の上で蹲った。
一羽の海猫がすぐ傍でミャーオ、と鳴いた。僕も少し泣きたい。身内に対する羞恥心で。
兄貴は、弟の僕を大層可愛がっている。物心ついたときから、ずっと。
何処に居ても何をしていても傍に居る兄貴。少し離れると寂しがって泣く兄貴。
その愛は凄まじく、正直なところ若干…否、かなり疎ましかったりする。詰まる所、うざい。
現実逃避に空を眺める。青い青い、融けてしまいそうな青。
海の青も美しいけど、僕は空の青も好きだ。海が母なら、空は父だ。
ふと、先日奥州を初めて訪れた際に会った独眼竜を思い出した。そしてその時のやり取りも。
僕と兄貴のやりとりを見た独眼竜は、その隻眼をひどく哀れみの色に染めた。
『つれェだろ…』と呟き、僕の肩を優しく叩いた独眼竜。
長曾我部軍では誰からも言われることのなかった同情の言葉。まともな感性の人に出会えた喜び。
僕は『独眼竜の弟に生まれたら良かった』と思わず口に出してしまった。
しかし、耳聡くそれを聞きつけた兄貴が僕の肩を掴んだ。馬鹿力で。
僕は心の中で言えばよかったと瞬時に後悔した。しかし時は既に遅い。
兄貴は『なッ?!ちょ、、兄ちゃんのこと嫌いか!嫌いなのか?!』と耳元で叫び、最後に泣いた。
その時の独眼竜とその側近の生温い眼差しが忘れられない。
とりあえず兄貴は他の武将の前でも泣く癖を直した方が良いと思う。
独眼竜曰く、兄貴のような人間のことを「ぶらこん」…武裸魂と言うらしい。
服を着ろということだろうか。意味は、良く分からない。
見張り台の上でそのまま暫く身を隠していると、漸く騒ぎが収まった。
甲板に集まっていた船員達は各自の配置に戻ったようで、
何時の間にやら聞こえるのは力強い波の音、そして海猫の鳴き声になっていた。
ほっとひとつ息を吐き、立ち上がる。ばさりと潮風が髪を揺らした。
そのままぼうっと水平線を見つめていると、ギシギシと見張り台に繋がる縄梯子が鳴った。
誰か上がってくる。もう騒ぎは収まっているので、隠れる必要は無い。
騒ぎの最中に見つかったらあの男臭い輪の中心に引き摺りこまれるが、今なら大丈夫だ。
逃げることなく堂々と立っていると、視界の端に銀色が映る。
その眩しさに、思わず目を細めた。と同時に、聞きなれた声が鼓膜を揺らす。
「!お前こんなとこにいたのか!」
見張り台にひょこりと顔を出し、こちらを見て嬉しそうに顔を綻ばせたのは
先程まで色んな意味で大暴れしていた兄貴だった。
なんでさっき居なかったんだよ!探したんだぜ、と拗ねたように口を尖らせている。
兄貴は僕より年上なのに、良くそういう子供のような仕草をする。昔からそうだった。
「騒ぐの苦手なんだよ」
一つため息を吐く。と、「んなこと知ってらぁ」と自慢げに兄貴が笑う。
じゃあそっとしといてくれ、と思わなくもない。でも言うと泣くので言わない。
邪魔すんぜ、と言って見張り台に上ってきた兄貴は、自然に僕の隣へと並んだ。
僕とは違う大きな身体。潮風に揺れるは美しい銀糸の髪。
黙っていれば立派な武将に見えるのに。
本人に聞かれるとまた泣かれそうなことを思い見つめていると、
くるりとこちらを向いた兄貴と目が合った。紫水晶のような瞳。
あ、不味い、と思う。しかし思ったときには遅かった。
避ける間もなく、頭をわしわしと力任せに撫でられる。
首がぐらんぐらんと揺れ、当たり前だが視界もぐちゃぐちゃに揺れた。
鬱陶しいからやめてくれとは言えない。言うと泣くから。だから僕はいつもされるがままだ。
兄貴はとても嬉しそうに笑う。
「、また背が伸びたんじゃねェか?」
「知らない。兄貴に比べりゃまだまだだし」
最近成長期に入り、漸く兄貴の胸に届くほどに伸びた身長。
筋肉も少しずつ付き始めたが、しかしまだまだ海の男と言うには遠い体つきだった。
この船の上で一番細くて小さい身体をしているのは、自覚している。
まだまだこれからだと分かってはいるが、隣に立つ兄貴と比べるとどうしても溜息が出た。
「髪も伸びてきてんな…兄ちゃんが切ってやろうか?」
「兄貴が?やだよ坊主にされるから」
「ちょ、おま、俺だってやりゃあできるんだぞ」
「兄貴にやってもらうくらいなら鸚鵡にやってもらう」
「俺ぁ鸚鵡以下か?!」
あ、また兄貴が泣きそうな顔をしている。
でも過去2回ほど坊主にされたので、兄貴の散髪の腕に対する信頼は無いに等しい。
先程から潮風に踊っている髪を、指で摘む。確かに伸びたかもしれない。
普通の黒髪より少しだけ色素が薄いと感じる髪。色の濃い銀髪だと兄貴は言う。
僕には普通の黒髪と大して変わらないように見えるんだけど、兄貴は銀髪だと言って譲らない。
どうも、光に反射したときの煌き方が黒髪とは違うらしい。
「銀髪だからお揃いだ」と、兄貴はいつも嬉しそうに笑うので、そういうことにしている。
が、やっぱり僕から見れば、銀と言うよりは鉄に近いような気がする。
兄貴のように美しい白銀の髪を持つのは、この世で兄貴だけだ。
「兄貴ー…」
「…どうした?兄ちゃんに髪切って欲しくなったか?」
「兄貴の髪を鸚鵡とお揃いにしてあげようか」
「、お前真顔で恐ろしいこと言うな!」
「嘘だよ」
兄貴は鬱陶しいけど、からかって遊ぶと面白いことこの上ない。
本当に、こうしていると只の阿呆な兄貴にしか見えないのにな、と内心息を吐く。
この阿呆な兄貴が、戦に出ると誰よりも頼りになる総大将に変わるのだから、本当に人というものは分からない。
巨大な碇を軽々と振り回すその腕は、逞しい。でも、兄貴も幼い時は姫和子と呼ばれるほどか弱い男だったようだ。
むしろ、男というより女と呼んだ方がしっくりくるような、そんな外見だったらしい。
生憎、僕は小さかったので覚えていないけれど。覚えていたかったと、少しだけ思う。
「…」
「何」
しょぼくれていた兄貴が、何時の間にやら真面目な顔をしてこちらを見ていた。
また髪を切らせてくれと言ってきたらどうしよう、と身構えた。兄貴は中々に諦めが悪い。
しかし幾ら頼まれても、僕はもう二度と坊主になるのは御免だった。断固拒否である。
「お前、後悔してねぇか?」
兄貴の口からは、想像もしていなかった言葉が転がりだした。
あまりに予想外だったので、少しきょとんとしてしまう。
「後悔…?なにが」
「昔よぉ、ちいせぇお前を無理矢理この船に乗せちまったじゃねぇか」
その昔。どうしても僕と離れたくなかった兄貴は、恐ろしい行動に出た。
船で旅に出るときに、城にいた僕を寝ている間に勝手に船に乗せたのだ。
朝目覚めたら揺れる船の上で、幼い僕は大層驚いた。あの時も、確か今のようにきょとんとしたはずだ。
初めて乗る船は大きくて、ごうごうと吹く風は濃い潮の香り。
太陽を背にした兄貴がひどくバツが悪そうに「わりぃ」と一言謝ったので、
しょうがないなと許してしまった記憶がある。それからずっと、どんな時も僕は兄貴と一緒だった。
「あれから文句も言わねぇでずっと俺についてきてくれてるけど、お前は本当にそれでいいのか?
何か陸でやりてェこととかあったんじゃねぇか?なぁ、」
お前はまだ若い、今からでも遅くねェんだぜ、と真剣な眼差しでこちらを見てくる兄貴。
その眼差しには、隠し切れない不安が滲んでいた。
僕が居なくなるのが寂しいくせに、そんなことを言う兄貴。
本当に阿呆だ。
「…何を、今更!」
もう僕が海に出て何年が経ったと思っているんだ兄貴は。戻りたかったらとっくに戻っている。
気に入らないところに黙って何年もいるほど、可愛気のある性格をしているつもりはない。
兄貴だってそんなこと十分気付いてるはずなのに。阿呆だなあ、本当に阿呆だ。
ひくひく、と頬が引き攣った。ああもう、我慢できない。ふはっ、と息が漏れる。
「ふっ、ふくくっ、あは、はははははは!」
「…?」
突然けらけらと笑い出した僕を、唖然とした表情で見る兄貴。
そりゃそうだ。僕が声を出して笑うなんて、何年ぶりだろうか。
久しぶりに激しく表情筋を動かしたので、頬が痛い。ああ、でも止まらない。
目尻に浮かんだ涙を指で拭いて、未だに唖然としている兄貴を見る。
「文句を言わないのは、言うと兄貴が泣くからだよ」
「んなッ、泣かねえよ!」
「泣くから言ってるんだよ。いい年してやめてよ、本当。恥ずかしいのは僕なんだから」
「わ、わりぃ…」
「あんまり分かってないのに謝る癖、治したほうがいいよ」
「、反抗期か?反抗期なのか?」
兄ちゃん悲しいぞ、と泣きそうな顔をする兄貴。
と、下の甲板から「アニキー、船の操舵、お願いしやす!」と声が聞こえた。
「おう、今行く!待ってろ!」
先程までの泣きそうな顔は何処へやら。
すっかり船長の顔になった兄貴が、こちらを向いてにかりと笑う。
伸びてきた腕が、またもやぐしゃりと僕の頭を撫でた。
「じゃあ、見張りは任せっぜ!危ねぇから落ちんなよ!」
「兄貴」
縄梯子に手をかけて、下りようとしていた兄貴を呼び止める。
顔だけひょこりとこちらに出した兄貴の顔を、真っ直ぐ見つめて僕は笑った。
「兄貴はみんなのアニキだけど、でもその前に僕の兄貴なんだからね」
「?」
兄貴は、気の抜けたような顔をして首を傾げた。
下から「アニキー!」と声がする。
「分からなくていいよ。ほら、呼んでるから早く行きなよ。
あと、心配しなくても僕のやりたいことは海にある。ずっと兄貴の傍にいるよ」
でも恥ずかしいから自分のこと鬼って言うな。あと早く弟離れしてね、と呟いて、
僕は未だにぼけっとこちらを見ていた兄貴の手を、軽く蹴り飛ばした。
縄梯子から兄貴の手が離れる。下にいた船員が、『あ』という顔をした。
「!お前、やっぱ反抗期なのかァァァ?!!」という絶叫。
ズガァン!と甲板に何かが落ちる音。破壊音。
「アニキィィィィ?!」という悲鳴。ミャアオ、という海猫の暢気な鳴き声。
「アニキ、モトチカ、オチタ!オチタ!」という鸚鵡のどこか楽しそうな声。
その全てが鼓膜を揺らし、僕は再び声を出して笑った。
ああ、明日は表情筋が筋肉痛になること間違いない。
「右よし、左よし、前方よし、後方よし。下を除いて異常なし、だ」
水平線を眺めて笑みを浮かべたまま呟いた声は、再び賑やかになってきた甲板の騒ぎに紛れて消えた。
09/09/26
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