ぱちり、と。
部屋の外に置かれた篝火が爆ぜる音が、静謐な空気に乗って私の耳へと届いた。
漆黒の墨を垂れ流した様な宵闇の中で、ほの白く浮かぶ彼女の肌へ、私は指を寄せる。
幾度と無く、己の手で咲かせた蝶が舞った美しい肌。
時に項に、または鎖骨に、あるいは腿に、踝に。彼女の気まぐれで、蝶は舞う。
「濃姫様、嫁入り前の御肌を、晒していいんですか」
「今更ね、」
そう言って彼女は笑う。美しく笑う。
「貴方が私に蝶を咲かせるのも、今宵が最後よ」
「そう、ですね」
蝶を描く腕を見込まれて、濃姫様に拾われた。
初めて彼女の肌に筆を滑らせ、蝶を描く際。
本来ならば彫り物がしたいのだけれど、嫁入り前の肌に傷をつけるわけにはいかないから、と
残念そうに零されていたのが、己の感覚ではつい先日のことの様なのに。
気付けば遠いところまで来てしまった。私も、彼女も。
「彫る箇所は、決められましたか」
「ええ。ここへ」
長く美しい指が、腿を指す。これまでにも幾度と無く蝶を描いてきた箇所。
蒼い蝶を、そこへと咲かす。これまでとは違う、永久に舞い続ける蝶を。
「ねえ、」
「なんでしょうか、濃姫様」
「私は、夜が明けたら、飛べない蝶になるわ」
「…目出度い事ではありませぬか」
彼女は、夜が明けたらこの城を出て行く。織田へと嫁ぐのだ。
私は、ただその背を見送ることしか許されない。
伏目がちになった彼女の目元に、美しく長い睫毛で影が下りる。
「…怖い。怖いのよ」
「…濃姫様?」
「私は飛べなくなることが何よりも怖ろしい」
「濃姫様…」
「帰蝶、と呼んで。昔みたいに」
「帰蝶、様」
蒼い蝶が、描かれる。ひらりひらりと、もう羽を休めることは無い。
いっそのこと、羽をもいでしまえたらどんなに良いか。
彼女の体に蝶が舞う。
彼女は明日、違う男のものになってしまう。
しかし、誰よりも先に、彼女の肌へ二度と消えない傷をつけているのは、私だ。
行燈の光がゆらりと揺れて、私と彼女の影もゆらりと揺れる。
只肌の上に筆を滑らせる感触とはまるで異なる、針が体を抉る感覚に眉を寄せていた彼女が、
私の方へとおもむろに腕を伸ばした。何をなさるのですか、と問う暇も無く、その美しい指を蒼く色づける。
「濃姫さ」
「帰蝶よ、」
「帰蝶様、指が」
「知っているわ」
「その色素は一度肌に付けば、中々取れませぬ。今なら直に落ちますから」
「私だって、貴方に蝶を描きたいの」
するりと伸ばされた腕が、私の頬へと触れる。
そのままするすると指で撫でられて、鏡で見なくとも大胆に蝶が咲いたことを感じた。
「の羽をもいでしまいたいわ」
そう告げた彼女の気持ちなど、私に分かるはずも無く。
彼女の手を握ることも出来ずに、只闇雲に蝶を刻み続けた。
この想いも、願いも、心も全て、全て飛んで行ってしまえばいい。
祈るような気持ちで最後の蝶を咲かせながら、このまま永遠に夜が明けないことを願った。
(09.04.09)
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